〝大切なこと〟2016

 

2016年 12月1日


 母と徒然に 4

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パックに入った盛りだくさんのお寿司が用意されていました。
お吸い物も即席のもの。お茶の準備もされていました。
テーブルには日常生活のいろいろなものが置かれていました。
『いったいどこで食べんねん』と思いきや、片方に寄せてなんとか。
叔父が飲むビールも冷蔵庫から出して、ささやかなパーティーの準備が整いました。
最近、痩せようと頑張っていた私でしたが、たくさんのお寿司を残すと叔父が後で困るかと思って、胃が痛くなるほど食べました。

     

話は弾み、私もひさかたぶりの幸せな時間が持てました。
ひと時を終えて帰るころには、足の踏み場もない部屋も、テーブルの上も、もので溢れたそんな空間さえも大事ないと思えるほどくつろいでいました。

帰りは、JR一本で一時間半で帰宅することができました。
車中、叔父の大変さを思うと同時に、私たちは叔母のフワーっとした笑顔と上品な身のこなしに救われ、認知症もまんざら悪くないなとも思い、そして交番所の話には何回も思い出し笑いをし、また冒険したくなったら行ったらええやんと応援したくなるのでした。
もうこれで母と叔母は会えないかもしれません。

昔の話を聞くたびに、母達の今ある暮らしには歴史のあることに思い至ります。
私が年老いて娘と衝突したときは、今あることが過去の積み重なった物語であることに気づける娘たちであってほしいと願います。
それには、私がそうでなくてはなりませんね。

  −−−− 叔父さんご自分も年老いて病の身でありながら、来る日も来る
      日もお疲れ様です。叔母がほのぼのとした笑顔を私たちに見せて
      くれたことに感謝します。
        半日ゆっくりさせていただいてありがとうございました。−−−−

と葉書を送りました。    


     


 

2016年 11月1日


 母と徒然に 3

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久しぶりに見た叔母は色白で上品で笑顔の愛らしい人でした。
妹と会えたからなのか、認知症でなのか、フワッとした幸福感が漂っていました。
叔父が徘徊の一部始終を面白可笑しく話してくれます。
彼は昔から人を楽しませるジョークがずば抜けている人でした。
だから私たちも遠慮なく一部始終を笑いながら聴けるのでした。

3回の行方不明の1回は警察犬に叔母のハンカチの匂いを嗅がせ、
大捜査だったということでした。
叔父 「近所中大騒ぎやった」と叔父さん。
叔父 「文句ばっかり言うとーわ」久しぶりに聞く神戸弁。
   「この間も朝、美容院に行く言うとー出て行って、ヘルパーさんが来て
   美容院に見に行ってもらったらおらんのやで」
   「それからやわ、夜まで探しよったで!」
 私 「なんで美容院行かんかったん?」
叔母 「この人に怒られよーから」
叔父 「どこでも言うとーわ!一番近くにいる人が悪者になるんやと」
   「笑わさんとなー、笑わさんとなんぼでもボケるさかいなー」と、
    そう言いいつ、時々ジョークが飛び出る。叔母もニヤッとする。
 私 「そんで?」
叔父 「京都の交番所から電話がかかってきた」「よう電話番号覚えとったわ」
叔母 「お巡りさんは親切やで!ご飯も出してくれよーわ」
 私 「へーっ、ご飯?てんやもんとってくれたんやろ」
叔母 「私、お金はもっとうからな。」叔母は常に微笑んでいる。
叔父 「美容院に行くというから一万円持たしたんや」
叔母 「お巡りさんはずーっと話してくれとうし、好きやねん」
叔父 「こっちはどこにもおらんし、心配したで!」
叔母 「ちょっとした冒険やねー」
    ちょっとした冒険やねーという叔母の顔は変わらず幸せそうでした。
    叔母は中学生の頃の交番所の思い出を大事に感じているようでした。





 

2016年 10月10日


 母と徒然に 2

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変形性膝関節症と虚血性心疾患で要支援2の介護認定を受けている母と、小旅行です。
行き先は京都から神戸垂水の叔母の家です。
母87歳とその4つ上の姉は、幼くして両親を亡くしました。
そして母たちは父親方の祖父の家に引き取られました。
しかし祖母と母の姉が合わず、姉は小学校を卒業してすぐ家を飛び出しました。
祖父の伏見の家を出て、大阪まで歩いたそうです。
歩いて、歩いて、大阪の交番所で保護され、
仕事を紹介してもらい、食堂で働きました。
母の話から聞くと、働いたお金はたくさんではないけれど、
ながく伏見の妹のところに送られてきたそうです。
細かいことはよくわかりませんが、母は今もそのことに涙します。

その姉が認知症(要介護3)になりました。
これも徘徊と言うのでしょうか、京都にいる妹(母)の家の近くまで来て辿り着かず、
交番所に保護されたそうです。
姉の家族からそのことを聞いた母は、今回の小旅行を決意しました。
いま思えば、もっと簡単に行ける方法もあったのですが、
帰ってきた今、行って良かったと納得です。

交通音痴の私は、母の言うことを信じて阪急電車に乗って、
いろいろ乗り換え、朝の9時に家を出て、着いたのは12時半。
山陽電鉄垂水駅から山手の叔母のうちまでタクシーに乗り、
広い通りまで迎えに来てくれた久しぶりに会う叔父が、
「ようきたなー」と。
でも、まだまだそれからなのです。
びっくり 家に入るには急な石段。
「わー上がれるかなー」と私、「ふん、頑張ってみるわ!」と母。
私は階段を踏み外しても後ろから受けられるような体勢で。
ようやく玄関の扉を開けると、足の踏み場を考えなくてはならないような荷物。
「座って」と勧める昔から気のいい叔父をよそに、
どこに座るねん?』と思う私。
母はすでに低い椅子を見つけて座っていました。
叔母は洗面所にいて、フワーとした顔をして部屋に入ってきました。


 

2016年 9月19日


 母と徒然に

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弟と二人で住んでいる母のところに、3週間に一回の医者通いと、
週に一回の掃除、買い物などに母と時を過ごすのがここ数年来です。

先日のこと、夫の運転で医者に行く母に同行、
車中で母曰く、「あんた、変やで
「うそそんなことないわ、ふつうやわ」と私。
このところ話が噛み合わないと、「あんた、変やで」と言います。
それを聞いている夫に、「変?」と私、「そんなことはない」と小声の夫。
この先どうなるのやらと、気が滅入ります。
でも自分の思うようになると「ありがとう」の連発です。
そんな時は、嫌なことは何もかも吹っ飛びます。
義理の息子の夫とは、ぶつかると取り返しのつかないことと心得ていて、夫の言うことには聞いたふりをして聞き流しスタイルです。夫はそれがわかったころから、賢く付き合っています。
聞いていると、なんだか、みずくさいようにも思えてしまうのですが‥‥
これから先どうしたもんでしょう。

来月は、認知症(要介護3)で徘徊(?)をするという叔母のところに、
母と会いに行きます。
京都の妹(母)のところに一人で来ようとして、たどり着けず、
交番所に保護されたのです。
母の持病は、変形性膝関節症と虚血性心疾患です。
京都から神戸垂水までの長い旅になりますが、さてどうなることでしょう。



 

2016年 8月1日


 暮らしを創る

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先月、支援NET立上げ当初から共に場を作っていただいている、
消防署の山田さんが「僕の今、一番話したいこと」のテーマで、
集いの時間を作ってくださいました。
皆さん、どんなお話かワクワクした気持ちで来られたと思うのですが、
開けてみれば救命救急の話でした。
私は前から知っていてちょっとがっかり、・・・でも、びっくり
その中身は映像を使っての、紙芝居でした。
入念に工夫された内容で、3時間もの時間を皆が退屈しないように、
集う日のために長い準備の時間を割いて作ってくださいました。
15年になりますがこうしたことが本当の官民一体となって、
地域を育てていくことになるのではないかと思います。

私達はこれまで幾つかの公的機関に参加をお願いしてきたのですが、個人的に時間を割いて、続けて参加してくださった方は山田さんお一人でした。
医師、介護士、ケアマネジャー、理学療法士、大学教授などなど。
それぞれの方のお住まいの地域での、あるいは職場から離れての、職能を生かした個人的な(ボランティア)活動が、
地域やそこに暮らす人々を真に活かすものではないかと思うのです。
これは生活の糧とする職とは離れての個人的な生き方に関わってくることです。
どの職種の方も公の職と個人活動との区別は難しいとは重々承知ですが、
良いものは良いと受ける側も差し出す側も、
広い温かな気持ちで育てていくことが重要なのでしょう。

私利的、排他的、こうしたことが人の足を引っ張り、
良いものを潰してしまいがちな世の中ですが、
少なくとも支援NETの集まりでは、
良いものを育てる気持ちを優先したいと思っているのです。
共に暮らしを創るということでもあります。



 

2016年 7月24日

それが一番大事なんだ

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朝の空を見上げて
今日という1日が
笑顔で居られるように
そっとお願いした

時には雨も降って
涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日頑張ろう

ずっと見ている夢は
私がもう一人いて
やりたいこと 好きなように
自由にできる夢

人生は紙飛行機
願い乗せて飛んでいくよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだか
どこを飛んだのか
それが一番大事なんだ
さあ心のままに 365日 ・・・ ♪


皆さんご存知の
AKBの〝365日の紙飛行機〟の歌詞です。
今年になってから体調を崩された、
支援NETの大切な人が6月亡くなられました。
懸命に、力の限り生き切られました。
私たちに大切なことを、いっぱい遺して逝かれました。
私たちは、彼女の生きかたから学んで、

  その距離を競うより
   どう飛んだか
    どこを飛んだのか

その意味をかみしめたいと思います。




2016年 6月1日


花束を君に

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今週の朝ドラの「とと姉ちゃん」です。
常子さんが会社をクビになって、
姉のおかげで学校に行かせてもらっている妹たちが、
姉を思うばかりに学校をやめて働くと言い出します。
自分は進学を選ばず職業婦人となって
「妹たちを養う」「妹たちを嫁に出す」
短冊に書いたそれが常子の目標でした。
その目標のためにもまだ家族とは離れられないと
好きだった人ともお別れしたばかり……

「お願い、そんなこと言わないで!」
「今日まで頑張ってきたのだから、お願い!」
彼女の顔は悲しみが溢れんばかりでした。

私にもここで諦めたくないものがあります。
「お願い、そんなこと言わないで!」という彼女の言葉が重なります。



2016年 5月1日

あなたにとって私もそうでありたい

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一リットルの涙の挿入歌「3月9日」、知っていますか?
 ♫ 瞳を閉じればあなたが瞼の裏にいることで
   どれほど強くなれたでしょう。
   あなたにとって私もそうでありたい 
   この先も隣でそっと微笑んで ♫
私はいまこの歌詞にはまっています。

『一リットルの涙』は、一人の若い女性が中学生の時に発症した難病と闘った実話を記した本のタイトルです。映画化、テレビドラマ化(フジTV)もされました。

愛知県豊橋市に住む木藤亜也さんは、中学3年生の時、頻繁に転んでしまうなどの体の不調を訴え、病院で受診。その後医師から、手足や言葉の自由を奪われながら最後には体の運動機能を全て喪失してしまう難病「脊髄小脳変性症」と診断されます。

それは小脳、脳幹、脊髄が徐々に萎縮してしまう疾患であり、箸がうまく持てない、よく転ぶといった症状から始まり、進行するにつれて歩けなくなったり、字が書けなくなったりします。最終的には言葉も話せなくなり、ねたきりになり、最悪の場合には死に至ることもあります。
小脳、脳幹、脊髄が萎縮していっても大脳は正常に機能するため知能には全く障害がない。つまり体が不自由になっていくことを、自分自身がはっきりと認識できてしまいます。彼女は、体の自由が利かなくなることと、自分の意識が変わることのない現実の狭間で生き抜いていきます。

彼女が闘病中に手が動かなくなるまで書き綴った日記をまとめた単行本『一リットルの涙』が、1986年、名古屋市の出版社から出版されました。愛知県など東海地方を中心に大きな反響を呼び、2005年には幻冬舎が文庫本として出版されました。
2006年発行部数は210万部を突破し、ロングセラーとなっています。

1988年5月23日、午前0時55分、木藤亜也さんは脊髄小脳変性症の進行に伴う衰弱とそれに伴う尿毒症により、25年の短い生涯を閉じました。その後、亜也さんの母、木藤潮香さんが娘との思い出を綴った単行本『いのちのハードル』が出版されました。
病状が進んで、高校2年の時亜也さんは3級障害者手帳を持つようになります。
担任の先生から母に「本校には3級障害者に適した設備がない。他にもっと適した学校があるなら・・・」。それを聞いた亜也さんは、くる時がきたと悟りながらも、母の前で号泣します。そして転校を決意します。「私は○○高を去ります。なんて格好いいことが言えるようになるには、一リットルの涙が必要だった」。それでもクラスメイトには「行かないで!と言って欲しかった」と、亜也さんのその日の日記に綴られていました。

彼女の日記は私たちに伝えています。
人は人を必要とすることを・・・
そしてそれぞれの関係性の重みを・・・

私はどれほどこの関係性を大切に培ってきただろうかと思います。
私だけでなく多くの人たちは日々の暮らしの中、
人と人との関係性がどんなに大切かを重視しないで暮らしています。

たぶんそれが普通なのでしょう。
人は幸せであればあるほど毎日の生活が当たり前になります。
私もまだまだよくわかっていません。

たぶん、人は当たり前の生活を失った時、気がつくようです。
私も高齢に近づき、気がつきつつあります。
もう遅いでしょうか?

 ♫ 瞳を閉じればあなたが瞼の裏にいることで
   どれほど強くなれたでしょう
   あなたにとって私もそうでありたい ♫

とはいえ人と人との関係は難しいです。
でもそうありたいと願う気持ちを、
持ち続けることが大事なのでしょうね。





2016年 3月1日


幸せですか?

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3月卒業式の日、
先生達手作りの桜吹雪の中、彼らは退場します。
友君は私の方を見て満面の笑顔を見せてくれました。
歩き方、ほんの少し注意したくなります。
でも、肩をいからせて大股で、摺り足で歩く姿はもうありません。
姿勢、服装、言葉づかい、態度、遅刻、先生達を本当に困らせました。
就職も決まり、こんなに成長するのだ‥‥と目頭が熱くなります。
生徒の成長の一役になれたこと本当に幸せです。


春、翔君は高校生活にも馴染めないで3年生を迎えました。
授業も最後まで参加したことがありませんでした。
懸命に心に届くようにと言葉をかけました。
先生たちも翔君も共に成長することができませんでした。
身体を動かす土木作業員の仕事がしたい、と
夏には学校を去って行きました。
幸せを見つけていたらいいけれど、
幸せですか? それが気がかりです。


ある夏の日、調理実習です。
スイートポテトを作りました。
みやちゃんが嬉しそうに言いました。
「先生、今度の日曜日は父の誕生日なのです」
「久し振りに帰ってくる父に作ってあげます」
お父さんは仕事に行ったらしばらく家には帰りません。
小さい頃はお母さんも働いていて鍵っ子でした。
家事はほぼなんでもできます。
どこに社会生活上の障害があるのかと思いますが、
自分が人よりできることも友達の中では控えめです。
小学校、中学校といじめられてきた経験があるからです。
みやちゃんの会話の端々から、彼女の家族思いには頭が下がります。


秋、進路は定まらないけれど、
みんな、自分がどうしたいかが見えてきた頃です。
咲ちゃん、あなたは怒ったように言いましたね。
「先生、スピードは大事ですか!」
「遅いけれど、○○さんのやり方でいいのではありませんか?」
その時、互いに気まずい空気が流れましたね。
家に帰って考えました。
きっとあなたも考えたでしょうね。
ごめんなさいね。私の心と言葉が足りなかったのです。



ある冬の寒い日、
「この子がこんなに小さい頃から一緒なのですよ」
小さい子の頭を撫でるようにしながら寮母さんは囁きました。
高校3年生になるのぶちゃんは、
もの心ついた時に寮母さんの胸に抱かれました。
事情はわからないけれど、
施設に立ち寄った婦人は胸を詰まらせました。
この場所にはそんな境遇の子供達が日々頑張っています。
多くの人はそれを知っているようで、知らないです。
知ろうともしないのかもしれません。


日差しは春、そろそろ卒業式は近いです。
「先生、もう最後やし、抱きついてあげるわ!」
千代ちゃんは情緒に障害があっていつも不安定です。
本当の愛を欲しい、と彼女の心はそれを訴えています。
卒業したら就職し、施設から独立しなければならない。
そんな焦りも手伝ってか、昨年より心は不安定です。
今日は何があったのか先生に初めて抱きついたのです。
先生は心が満たされました。
きっと彼女の心も、いっとき満たされたでしょう。


生徒たちへ
今日は卒業式でした。
毎年ハンディをもつ生徒が社会に巣立っていきます。
どうぞ自分の思う幸せを見つけてください。
幸せになってくださいね。
それだけが気がかりです。
これからのあなたたちに、わたしには何ができますか?
みんなが幸せになれる社会にと、心を寄せることですか?


社会の人へ
生徒の成長に関わって10年になります。
たくさんの生徒が卒業していきました。
井戸端会話の中には支援が必要な人たちへの、
軽はずみな中傷がわたしの耳にも入ってきます。
そんな中にいると、人として互いに助け合える言葉や気持ちを、
ややもすると忘れてしまいます。
社会は甘くないです。
それは本人たちもわかっています。
経済的なものや政策などについて、個人の力には限りがあります。
でも、心や言葉を丁寧に発することは、
隣のおじちゃんやおばちゃんにもできます。
きっとできます。
それが何よりも私たちが社会を変える力になるはずです。
それは支援を必要としている人だけにかぎらず、
すべての人、みんなが幸せになる一番近道のようです。
そして支援を必要とするひとも社会を変える一人になれます。
ひとは皆互いに支え合えたら素晴らしい。
偉そうなことを書いているわたしへの言葉でもあります。

これまで出会った生徒達へ、 心を込めて‥‥‥

(名前は仮名です)    



2016年 2月1日


無理に合わせなくてもいい・・・




二人の娘に、男ばかり三人と二人の息子がいます。

それぞれの長男二人は今年から中学生です。
二人は物心つく頃から何かにつけて張り合っていました。
それぞれの両親の祖父母を含めた家族環境、
それぞれの親の経済力、
生まれながらの性格、
それらに伴う大人たちの接し方、
そして同い歳の従兄弟の存在、
その中で二人は良いことも悪いことも身につけてきました。
そしてそれぞれに弟が生まれました。
上の娘には3年生と下の娘には4年生と幼稚園の弟がいます。

上の娘の二人兄弟の次男は、小さい頃はジャイアンみたいなお兄ちゃんの腕力にいつもやられ、
それでも反面教師なのか素直に育ち、誰にも優しく接します。
この優しさは生来のものでしょう。まだ小さいながらこんな人が介護士に向いているのだなと
思わせられます。そのまま大人になって欲しいと願います。
兄の方は誰にでもフレンドリーなのですが、周りの空気を読むことに不器用で、
人との関係に不自由さを感じています。

下の娘の三人兄弟の次男は、兄には口で負け、弟のわがままには譲り、我慢づよく優しく、それでいて意志が固くて自分を持っています。
社交的で好奇心が強く、何にでも挑戦しようとするしっかりものの中学生になる長男は、負けず嫌いでやや自分中心です。
そして二人のお兄ちゃんたちを親が叱るのを見ていて、ちゃっかり良い子になる末っ子がいます。二人の兄たちと対等に振る舞おうとたくましく育ち、私たちを喜ばせる言葉を素直に表現します。

なんかややこしいですが、五人は五とおり、当たり前ですがどの子も愛おしい。
お正月には暮れから泊まり込んで大人を入れて総勢11人になります。
ある時は五人仲良くしているかと思えば、
はみ出しているのは二人です。
また、一番年上のお兄ちゃんがごねています。
本当は最もみんなと仲良くしたいのに要領が悪いようです。
3人兄弟の真ん中の子はごねることなく寂しげでもなく一人ぽつんといます。
普段からこのような体制が作られているようです。
気を遣う大人たちをよそに「べつに・・・」って感じです。
争いをさけて守りに入っているのでしょう。何事もそのようです。

3人兄弟のスタンスはそのまま外の社会にも当てはまります。

他の3人は要領よく自分の居場所をいつも確保しています。
これが社会なんだと思わせられます。
それぞれ誰が悪いでもなく、居場所確保に懸命です。
娘の一人が「無理に合わせなくてもいい」と言います。
これには賛否両論あります。
職場で、
学校で、
地域で、
お隣さんでも、
母が行っているデイサービスでも、
どこにでも、何歳になってもこの課題はついてきます。

私はなんとか仲良くしたいと思います。
それは一見良いように見えます。
しかし、そうすることで互いに葛藤が起こります。
余計にややこしくなることもあります。
あなたはどう考えますか?
私はここに拘ってしまうのです。

そんなの考えすぎ… 誰かに言われそうです。


2016年 元旦


それぞれの人生の間で

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あけましておめでとうございます。

私が今の地域に嫁いで来て早40年になります。
その間共に子育ての時代を過ごした彼女たちとは、
子供会、女性会、ほか小学校の行事や育友会の役員などの活動で
時間を共有してきました。
40年ほどの月日を経てそれぞれの人生を振り返ると、
感慨深い思いがあります。
この小さな町内会であっても、若くして統合失調症になった人、パーキンソン病になった人、
筋萎縮側索硬化症(ALS)になった人、アルツハイマー、そして癌・・・
病に見舞われた人の中には、
若くして亡くなった方もいらっしゃいます。
知的障害、発達障害、病気や事故で身体に障害のある方たちも含めれば相当な数になります。
少子高齢化、独居老人の増加、貧困家庭が加わります。
その数の多さから、それが決して他人事ではないことが
ひしひしと伝わります。

そう思えば、どうしてもっと元気なうちに人と人が
他人事としない関係を築いてこなかったのかと思います。
でもですね。
どういった関係が他人事としない関係かというと答えは
難しいですよね。
ほんとうの解決は一人一人の気づきしかなく、
関係の構築には双方の気づきと成長が必要なようです。
永くこの「場」で学んできたけれど、人と人との関係を築くには時間がかかります。
けれど壊れる時はいとも簡単にすぐに壊れる。
また壊れるのが怖くてオブラートに包んでいる場合も多くあります。
ところが、壊れたからこその気づきや再出発もそこにはあります。
本物の関係創りには双方の気づきが必要です。
しかし本物を築くのはなかなか難しいもののようです。
「難しいからそんなものだ」と避けて通りたくない頑な私がいます。
私にはまだまだ軌道修正の時間もあるし、本物が築けると思いたいのです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。