〝大切なこと〟2009

   2009-1-1〜2009-12-1

 


20091201 〝活きる〟デザイン

 11月の私たちの集まりは《活きるキャッチボール》と題して、4人の方がたにお話ししていただきました。支援NET立ち上げ当初からお世話になっている公務員の○○さんが、今では個人で参加してくださっていて、今回はボールの投げ手になってくださいました。仕事上での市民との活きたキャッチボールについてのヒントを求めておられました。市民のくらしに近い職種の、彼の参加は私たちに活力を与えます。


 90歳になる女性の投げたボールは、老身の日々のその生き様に受け手が涙する感動を与えました。後日寄せられた彼女に当てた感想文を目にし、ご自身が活かされていることに感動されていました。


 当たり前ですが、地域にはさまざまな人たちがいます。職種でいえば教師、介護士、消防士、警察官、看護師、医者、スーパーの経営者、美容師、薬剤師、会社員等々、多彩ですね。それらの人の知識や技術を地域に活かすべく働きかける。経済活動によって地域に貢献するということもありだけれど、経済活動から少し離れてみて、社会にそれらを活かしていく生き方に意識を向けてみる。


 それから忘れてならないのは、最初から経済活動には組み込まれてこなかった人たち、否応なく外された人たち、いまでは経済活動からリタイヤした人たちもいます。それらの人たちにも得意なこと、好きなこと、これならと頑張れることがあるはず。自分を活かし、他の人をも活かす働きに少し意識を向けてみる。


 キャッチボールは、投げ手と受け手との意気投合です。投げ手のボールを活かそうとする思いと、受け手の、投げられてきたボールを活かそうとする思いとの共同作業です。このキャッチボールをする広場の一つが、くらしの支援NETWORKなのです。

20091101 〝介護〟というデザイン

 先日、仕事と絡んでトークセッションに参加する機会があった。
 リビングワールド代表の西村佳哲さんとアメリカアップル社のデザイナー西堀晋さんのトークだ。
 『私たちはなんのために働いているのだろう・・・・・・いろいろな答えがあるだろうし間違えも正解もない。ただ仕事は人生と、働き方は生き方と裏表だから、そこにどんな真実味が感じられるかということに、僕は強い関心が有ります』・・・・ポスターにある西村氏のメッセージを目にして、私はハッとした。


 一方、西堀氏はパナソニックのデザインを手がけていた時代があったという。担当はエアコンのデザインで西堀さんのポリシーはこうだった。エアコンは無いに近いデザインが一番美しいというのだ。「へっ!エアコンがない?」そしてラジカセ、バブル期、ラジカセのデザインは複雑ででっかいのが美しいとされていた。その中で西堀氏はシンプルにこだわった。結果、受け入れられなくて会社を離れることになる。その後、アップル社のオファーを受ける。私も愛用のコンピュータ、そのアップル社のマックは実にシンプルで美しいデザインだと思っている。


 『無いにひとしいシンプルさ』を介護に置き換えてみた。介護の仕事は、当然だが皆が元気であれば本当は無い方がよい。大切な働きはしていても、西堀氏のエアコンのように前面にないほうが美しい。前面にあるのはその人の生き方にある。介護を必要とする人がそれまでのくらしに続く先の生活をデザインし、それを助けるのが介護の専門職だろう。おまかせします、何とかしてください式の利用者が多いが、自分の人生は自分でデザインする。それが、これからの高齢者のすがたであってほしい。『自立』とは、支える側が唱えるものではないはずだ。


 『何のための仕事?』を介護に置き換えてみた。介護の仕事は対象者のデザインする生活を支える。『介護は、何のための仕事?』と問うてみる。答えはいろいろだ。本当にどれが正解でどれが間違っているというものではないだろう。ただ、提示されたあるいは提示されにくい、その人らしいくらしのデザインに可能な限り近づけていく仕事が介護なのだろう。人と人との関係は、支える、支えてもらう関係ではなくその生業をとおして互いに成長していくことに旨味がある。介護の仕事のなかにもそういう旨味を感じられるか、感じられないかなのだろう。その介護の場合の働き方は、双方で築いていくものということに、私はいま正に関心がある。


 西村氏、西堀氏の二人の飾らない洗練された服装、それは生き方からくると見え、その落ち着いたトークは私を魅了した。カフェーマスターをも経営する西堀氏は言う。『どんなに忙しくてもパニクりそうになっても、客に幸せな時間を過ごしてもらおうという接客姿勢は『生き方』そのものである』と。私もそう語れるようになりたい。
まだ・・・何か足りない。

20091001 ただいま進行中です

 ある事業所で、知的に少し障害のある人たちに向けての介護士研修の講師をさせてもらっています。知的に障害をもつ人が介護の仕事に就くための研修で、私自身どこまで伝えられるか、どこまでわかる研修ができるか。彼ら彼女らの真剣に学ぶ姿勢に接して、障害のある人の就業について考えさせられることに直面しながら、ただいま進行中です。


 彼ら彼女らは障害と認定されていますので、よくもわるくも自他共に障害と認められた人たちです。障害は軽いとはいえ、やはり何らかの援助が必要な人たちです。介護を学ぶということに意欲のある人たちですから、彼ら彼女らの能力が介護現場で最大限発揮できるように、周りの人に助けてもらいながら社会参加、社会貢献ができる、社会のゆとりのある受け入れを望んでやみません。


 現在、介護現場はますます人手不足です。
くらしの支援NETに参加している施設職員の顔を見るたびに、疲れ切った様子をみると、『良い介護とは・・・』なんて言われなくなっているのが現状です。
くらしの支援NETを立ち上げた当初は、介護保険の施行と相まって『利用者主体のよりよい介護』のフレーズが世間を飛び交っていました。そして多くの人が介護現場の仕事に意欲を燃やしていました。
 くらしの支援NETのデビューは、時勢的にとてもタイムリーでした。それが今や介護職から人が離れていくという事態が続いています。今、助け手の必要な知的障害をもつ彼ら彼女らの受け入れを望むのは無理があるのでしょうか。否、無理ではなくて介護の現場であるからこそ、彼ら彼女らの存在が大切にされなくてはならないのでは、と思えるのです。
 ただ人材不足だからと言って、人の命に関わる仕事ですから生やさしさは許されません。彼らの『活きる』をサポートできる介護現場のゆとりが欲しい。
 つい『あんたら・・・・』と言ってしまう私に、『先生!あんたら言うたらあかんねんでー』という生徒。
 『モーッ、ええャンかー』と言ってくれる生徒。
 そのままの素直な心が愛おしい・・・

20090901 手押し車の大学生が意味するもの

 この秋、社会人で知的に障害のある人に向けて2級ヘルパーの養成研修を担当することになっています。知的と精神と肢体と内部障害と健常などと、わけることやそういう言いかた等々、『だめじゃないか!』と思われるかたもいらっしゃることは承知の上で書かせてもらっています。私自身、本当は人を障害別カテゴリーで分けるのには抵抗があるのです。


 他の理由で、必要あって『ノーマライゼーション』を学び直しています。いまさら、というか・・・・・なんか気恥ずかしい。それはノーマライゼーションという単語が普通の人に普通に行き渡っているからでしょう。
 でも、学び直してみると気がついていなかったことが見えてきます。どんなことも例外なくその時々の、またそれまでのその人の経験や心のあり方が学ぶ深さを決めているのだと思います。
 「ノーマライゼーションとは、障害をノーマルにするということではなく、障害者の住居・教育・労働・余暇等の生活の条件を可能な限り障害のない人の生活条件と同じようにすること」--------1998年10月4日、大阪YMCA国際文化センターで行われたベイクト・ニーリエ氏来日フォーラム本当のノーマライゼーションとは?を考えるにおいて、朝日新聞論説委員大熊悠紀子氏との対談 --------


 前回(8月)の「大切なこと」のモデルとした『歩行器で大学へ通っている片麻痺の人』、まだまだ彼のニーズを欠いてはいるだろうけれど、そしてこれからも並大抵ではないだろうけれど、大切なことを語っています。彼のライフサイクルにおけるノーマルな生活、そして彼の活きるための活動(成長)のニードに可能な限り応えることのできる制度政策の支援、そしてそれらを自分のこととして当たり前に受け止める社会の支援が自然であること、ノーマライゼーションとはそういうことではないでしょうか。この自然であることがなかなか難しい。そう、当たり前になることかな!そこまでいくにはまだまだ時間がかかりそうです。


 今回も研修を受け持つ講師としての責務は大きい。そして彼ら彼女らの持っている能力を発揮できる社会の在りようが問われます。受け入れる社会の器が小さすぎます。就職難、少子高齢、リストラ、覚醒剤、孤独死、自殺、貧困等々暗いニュースが後を絶ちません。この厳しい社会にあってノーマライゼーションは障害をもつ人だけでなく、高齢者や多くの社会的弱者の問題でもあります。実はそういうことから目を逸らして楽しいことへ転化してごまかしている自分もいます。それでも、・・・・・時折、当事者の姿にハッとする瞬間があります。
 そういうとき私自身が少し大きくなった気がするのです。

20090801 大学へ歩行器で通っている片麻痺の人

 この歳で(?)教職の資格を取ろうと、ある大学に通っている。教職は団塊の世代の多くの退職者を控え、採用の年齢を広げているけれど、私にはとうに過ぎた年齢である。だから私には関係ない。その訳はまた次回に、として・・・。


 登校日、片麻痺の男性、年の頃50歳くらいだったと思う。老人が買い物で押しているのをよく見かけるが、その歩行支援車に本を入れて一歩、一歩、また一歩、と大学構内を歩くその姿に、息を呑むほど感動した。
 ここまで歩行が困難なのに学ぼうとする姿勢に、『なぜ?』って聴いてみたくなった。今思うと、ほんと!非礼やね!私って・・・・・。彼の歩く姿がこけないよう、慎重に、慎重に・・・と思えたので声もかけられず、非礼なことを聴かずにすんだ。また機会があれば興味本位でなく真摯にお話を伺いたいと思う。


 彼にとっての大学の学びは、人生の目的となっているのだろうか?その目的が不自由を押して頑張ろうと奮い起こす気持ちにさせているのは何なのか・・・。こうして不自由な人をも学びの場を広げている大学にも拍手を送りたい。


 大学のレポート提出で、課題プラス感想をということだったので、『場と役割』について関心がある、と書いた。『持続可能な福祉社会』というフレーズはもう誰もが目にしていると思う。『持続可能な福祉社会』を基とした『場と役割』は、くらしの支援NETWORKの学習課題でもある。持続可能な福祉社会とくれば『制度政策』への変革を、とも考えられるけれど、ここではそうではなくて個人の主体的な態度を指している。大学で見かけた片麻痺の男性の主体的な学びの姿勢(態度)、そして場(ハード面ではない)を創る創り手の姿勢(態度)、これらが基にあってこその制度政策でなくてはならない。
 まだまだ私達は未熟である。

20090701  アチャ!


 たまに、支援ネットを続けていくことに、しんどくなってしまうことがあります。ときどき、『続けなきゃ!』と使命感に燃えるときがあります。
 それはどんなとき?と友人から聞かれました。
 支援NETを7年間共に育ててくれた仲間がいることです。また社会活動の中で私自身の成長を確かなものとして自信を感じるときです。そして支援NETの活動に参加して確かな意味を感じて帰っていく人がいることです。
 しんどくなるときは支援NETの意味を人に伝えられないときです。私自身の成長を感じられないときにもです。それでも新たに一人また一人と来てくださいます。やはりやめられないですね!


 先日、知的に障害を持つ子供さんを持つ父母の会でお話をする機会を得ました。ご近所のTさんもその父母の会のかたで貴重な機会をわたしにと、与えてくださいました。その席で私はこともあろうに、孫の発達障害を『バチが当たりました』と障害を『罰』にたとえてしまいました。Tさんは『アチャ!』と思ったそうです。もう30歳を過ぎるTさんの息子さんと私の娘が同年で、その息子さんの障害を『他人(ひと)ごと』としていることに『罰が当たった』と言ったのですが・・・考えてみれば、『罰=障害』なんて馬鹿な話はないですよね!
 Tさんは未熟なわたしに成長の機会を与えてくれたのです。そして時間を共有してくださった父母の会の皆さんありがとうございました。左の写真に写っているカップは、そのときお礼にといただいた子供たちが創った作品です。すてきですね!
 お茶の時間に今回のこの話を共有したいと思います。
 人は、知らず知らずのうちに誤った価値付けをしています。そして子供たちや若い人に何げなく伝えます。そう、何げなくです。また知らずしらずのうちに人を傷つけ、またそう言われないようにと人に心のバリヤを作らせてしまいます。そして自分をもそのバリヤで不自由にしています。いろいろなことに自由になるには私にはまだまだ時間が必要のようです。

20090601 まだまだ〝成長期〟の私



 私が結婚して今の地域に暮らした30年前にもどります。
 子供の同級生に知的に障害のある子、たぶん今で言えば発達障害だろうなと思う子供がいました。その子供や家族とのつきあいは、ふりかえって思えば無知で本当に上辺だけの装いでごまかしていた自分の心に気づきます。他人事だったのです。
 5年前、滋賀県に嫁いだ娘の子が3歳頃から動き方がちょっと普通ではないと気づきました。よく動き過ぎるのです。人と視線を合わさないということも観察してみれば容易に気づきました。それでも男の子だから・・・・・と楽観的でいました。保育園に行くとやはりちょっと違うそうです。いろいろあるのです。まず人に触られるとゾワッとするのでしょうか、怒るのです。そして騒がしい音に敏感です。テレビを見ていますと周りの雑音が気になって音量大きくなります。それも異常に大きくなんです。また、先生が『○○ちゃんだめですよ!』って他の子に注意しますと、娘の子供が先生に代わってたたきにいくのです。「わがままな子によくある・・・」って思ってしまえばそうなのですが、そういうときあの子の頭の中は何か変化があるようです。本人もしんどく感じているようで、それが障害だということです。ここで初めて障害が他人事でなく自分のものになったと言えます。


 地域には様々な人が住んでいます。そこにはいろいろな偏見もあります。部落差別もその一つです。精神分裂病の人、今は統合失調症と言います。現代は閉じこもりのニートと呼ばれる人もいます。リストラまたは、いつクビになるかわからないなか不安いっぱいで働いている人、することの見つからない老齢の年金生活者、老老介護、なかなか結婚しない若い人たち、他にもいろいろです。皆それぞれ自分の価値基準で物事をはかって暮らしを創ってきました。最近は今までのやり方を顧みて政治、環境、教育、経済などいろいろな分野からこれではいけないなんて、なんとか人間らしさを取り戻そうとしていますが・・・・・


 先日、地域で〝心の病を持つ人のお話を聞く会〟があって参加しました。そこで15歳から統合失調症で悩んでいる40歳くらいの女性が語ったことはなんだと思いますか?『私は健常者に聴いてほしいことがあります。今、心の病を持つ人を偏見の目で見ていると自分がそうなったときに苦しむことになるのです』と言われました。 そう考えると私は今までの、そしてこれからも自分の心のうちと向き合わなければならないのだろうなと思いました。そして、考えているだけではだめなのです。そういう意味で、くらしの支援NETWORKのこの活動はとても大切な『場所』になっていると思います。いろいろな人と交わってその人の生活の文化を知ること、そういう場が必要なのです。でも交わるだけではなかなかわかり合えないです。その場を育てるために自分には何ができるかです。何をするかです。
 人は人によって成長できる、私もまだまだ成長期です。

20090501  父のこと Ⅱ



 父は昭和55年6月末他界しました。通夜に借金取りが来たのには、身体が凍る思いでした。その日稼ぎの父らしいといえばそうなのですが、最後まで家族にはお金のことで苦労させたのです。
 葬儀は貧乏長屋の狭い自宅で執り行いました。当時は、自宅での葬儀が当たり前でしたから、簡素化されている今では考えられないことです。
 心も体も凍る思いのまま、悲しみも凍らせて葬儀の日を迎えました。隣のおばちゃん、おじちゃん、向かいのおばちゃんが嗚咽をあげて、父を愛称で呼びかけて泣いてくれました。
 同じ町内に住む私の幼なじみが、柩の上に白い花束を飾ってくれました。早く嫁いだ私の代わりに父たちを見守ってくれていたのです。なんの名誉も地位もない父でしたが、葬儀の日のこの光景は、父が家族に唯一残してくれたものでした。
 私が死んでも父の時のように誰が泣いてくれるのかとの思いがよぎります。隣のおじちゃん、おばちゃん、そんな親しげな関係は築けないまま歳を重ねています。多くの人がそうであるように、隣近所の関係の煩わしさを捨てて高度経済成長の波に乗り遅れないようにと思う私がいました。


 地域社会が大きい意味をもたなくなってしまった今の社会、あの頃には考えられない孤独死でさえ、人ごとのように過ごす日々を重ねていきます。
 今となってはお隣さんのちょっとお節介に思えた煩わしさも、貴重な懐かしさとしてよみがえります。

20090401 おくりびと



 三月半ば友人がお父さんのおくりびととなりました。
 映画『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞に選ばれ、テレビなどで撮影の様子などが頻繁に流れていました。それに重ねて『死』というものの秘められた世界を、今回の友達のお父さんの死ほど深く考えさせられたことはかつてなかったように思います。
 友人は18歳の時、交通事故で頸髄に大きな損傷を受けましたが、いまは〝支援NETWORK〟の大切な存在として重要な働きをしてくれています。
 彼の父親は、毎晩お酒を飲むと夜中遅くまで暴言と暴力をふるうドメスティック・バイオレンスだったといいます。彼が障害を負ってからも、なおも暴力は続き、親戚縁者とも仲違いしてしまったそうです。そのようなお父さんから離れることは叶わず、来客はもとよりヘルパーさんにも、父の立ち居ふるまいが気にかかって、心が安らぐことはなかったようです。


 そんなお父さんが病気で入院されたのは昨年の夏でした。彼は本当は行きたくない病院通いを友人と共に続けたそうです。
 日常的に介助を必用とする重度の障害をもつ多くの人は、私たち健常者が日々の忙しさからスケジュールが立たないのとは違って、介助者の都合で予定が立たないことがめずらしくありません。
 朝の起床から夜の就寝までを、介助者との協奏によって暮らしを成り立たせながら日々をおくるという、一人ではどうにもならない不自由な中で生きています。
 ですから、かつて親しい人とのお別れの儀式も未経験な彼が喪主というのは現実には不可能なことなのです。
 それでも最低限、普通の葬儀をしようとしたのにはこういう訳があったのだと知りました。
 友人の介助で重ねる病院通いが、はじめは長男の義務としてだったのだけれど、回数を重ねるごとに親と子の複雑ではあるけれど、こみ上げる感情が溢れ出てきたのでしょう。
 後で看護婦さんから聴くと、最期の看取りは叶わなかったようですが、その前日には手を握り合ったお父さんの言葉にならない言葉に、彼はただうなずいていたということです。
 最期にひとときのお別れができたことは、彼の中で嫌悪してきた親の生きかたに向き合うきっかけとして大きな力となり得るでしょう。


 今回の彼に限らず、障害をもつ人にとって、人として当たり前の経験でさえ免除、排除されてしまいます。
 社会的な経験、関係の育み、学び・・・、ライフサイクルからそれらのどれが欠けても人は成長の可能性が閉ざされていきます。それをどのように支えていくか、自分のこととして向き合わなければ地域は良くなっていかないと思うのです。

20090301 父のこと Ⅰ

 大正2年生まれの父は社会運動家でした。男ばかり3人兄弟の2番目で、晩婚でしたが最後まで両親を看送りました。
 父は宮使いを嫌い、そうかといって商いで家族を養う気概もなく、家族には貧しい思いをさせましたが、優しい、とても人の良い人でした。
 私はそんな父の影響からか、中学の頃から矛盾を嫌い、理想の世界を夢みること、そしてそれを行動に移すことに目的意識を感じていました。


 高校を卒業したら看護学校にと決めていたのですが、日本は高度経済成長の絶頂期で、花のOLを望んだ母を悲しませることはできませんでした。
 経済成長の名残でまだまだ競争社会の中で結婚して出産、子育てを経て、幼稚園の母の会、小中学校の育友会の役員、そのたびごとに母として地域住民として、その先々でどのような働きをすればよいのかと苦悩していました。


 その後、子供の手が離れたのを機に天職と思って介護ヘルパーの仕事に就きました。そして今度は制度との狭間で良い介護とは・・・と思うほどに自分自身の無力さを思い知ることになりました。


 いま私は地域社会がどのようになればみんなが幸せになれるのか、何とかそれを実践に向けようと多くの人の力を借りています。
 今までの私と現在の私と普段の私を知っている人からは、笑われるだろうと思いつつ多くの人にお叱りをいただきながら、よい仲間に恵まれたことに感謝しています。
 ケアプランは、これまで自分の生きてきた道と、これからの自分の生きる道につづいています。私のライフサイクルは、ずっと「本当に幸せになるには・・・」なんてことを考えつづけるのでしょう。それが私のマイケアプランなのでしょう。
 酸素マスクを着けていても、未熟な看護婦さんに『あんたそれで良いの?』なんて、ひそかに思っているのかもしれません・・・。自分のことはポーンと棚に上げて・・・

20090201 パパは熱い人やで!

 孫曰く「パパは熱い人やで!だから暖かいんやで!!」
 「ママは?」
 「ママはぬるい」
 せめてママが冷たい人だと言われなくて良かったとホットしているママの母の私です。
 孫が言っていたことを娘に伝えると「クスッ」と笑みを浮かべていました。熱い私の長所や短所をよく知ったうえでの余裕の笑みだったのでしょう。
 娘のぬるさは熱い私を観て育ったせいでしょうか。いつか娘は「お母さんも頑張っているけど私も頑張っているのやで!」と言ったことがあります。
 「はっ!」としたことを思い出します。
 当然のことながら人はそれぞれの価値観をもっています。そこには資質をはじめ、生まれ育った環境、教育、出会った人、それらを基にしてかたち創ってきたその人がいます。それはその人の生き方を創り、所作、言動に映し出されます。


 昨年の今頃「そんなの関係ねー」といって身振り手振りで、やって見せてくれた孫は、今年はWiiというゲームに夢中で、話しかける私に「そんなの関係ねー」、なんです。
 どんな大人になっていくのか、地域の人とも関係して、育っていって欲しいものです。『みんなで関係築こー!』です。

20090101 たいせつなこと

 暮れの12月30日午前5時、まだ年賀状を書いています。
 くらしの支援NETWORKと共に歩んでくれた人、そして遠くで応援してくれている人、そして私の友達、親戚、知人にみんなに『ありがとう』を伝えようとしています。


 私は左利きです。幼い頃、母に左利きを強く矯正されました。それは母の愛情だったのでしょう。小学校に入学すると先生からも矯正されます。まるで左利きが「悪者」のようでした。先生が教壇から生徒に向いて歩いてくる時、私は左手の鉛筆を右手に持ち替え、さも右手で書いているように装うのでした。
 私たち家族4人は全員左利きです。書くことを矯正された主人だけは、いま右手で年賀状を書いています。「矯正したから下手になった」と笑って言います。
 娘たちは先生から「矯正を」ということも言われましたが、本人の意思を確認して左利きを『よし』としました。私は私の字を愛おしく思っています。娘たちにもそうなって欲しいと思います。正直、不自由はありましたが矯正するほうがもっと不自由だということもあります。


 社会の規範、道徳、なんのためにあるのでしょう。この『問』は私が幼い頃味わった体験からしみじみと沸いてくる感情です。社会規範や道徳は、人が社会生活をするうえで、万人のことをも鑑みた幸せの潤滑油のようなものでなければならないと思っています。この『問』はいろいろなところに当てはまります。そして何が大切なのかを見極める『問』でもあります。


 人の『行為』や『言動』そのことの動機の意味するもの。その動機を振り返ること。大切なことはそこにあります。人はみんな弱いものです。だから互いのチカラを必要とします。たがいにチカラを寄せましょう。


 今年もまた一年、来年の年賀状に『ありがとう』が書けることを願って・・・

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