〝大切なこと〟2010

   2010-1-1〜2010-12-1

 

2010年12月1日 人と繋がるコミュニケーション〝力〟





 中学のとき同級だった彼は今、九州で農業をしています。父親の法要で久々に上京したのでと、逢うことになりました。
 もうすぐ還暦を迎える私たちですが、娘さんは出産時の重度の脳障害で、以来彼ら夫婦は娘の介護とそれと向き合う自分や社会の壁とつきあってきました。
 彼は心の内をあまりに淡々と明るく語るので、その心の襞を充分に察することができなかったのではないかと、いま思います。


 いろいろ懐かしい思い出を語り合う中、彼が中学時代いじめられていたということを初めて知り、その状況や心模様を垣間みる思いで聞き入りました。
 高校卒業後、大学に進んだ彼は、農業をして、長年の福祉への思いを今、ボランティアというかたちで社会へ還元しています。
 今回、彼が青年期からの内在する思いを発することができたのは、重なる条件が力(コミュニケーション力)となったのでしょう。友人との語らいが、静かな時間の流れのなかで、あっという間に過ぎていきました。


 最近、コミュニケーションの重要さが問われますが、ここでの『コミュニケーション』は内なるものが介在したものだと捉えたいと思います。
 支援NETWORKでは人との繋がりを大切にしていますが、互いの内なるものがキャッチボールされたとき、人は真のコミュニケーションができたということなのではないでしょうか。
 しかしそれは決して簡単ではないようです。


 私が接している生徒達は、発達の過程で支援を必要としているのですが、彼らにもコミュニケーション力がいつも問題になります。彼らの支援の必要とするところが理解されてはじめて、互いの成長をとおして彼らもそれに答えようとする。
 そのキャッチボールは、健常な人が互いに繋がろうとすることと何も変わらないのだと思います。誰もが人と繋がるコミュニケーションの力を発揮できる2011年の幕開けとしたいものです。

2010年 11月1日 人が活きる繋がりを求めて




 私の住む京都桂で地域での集まりを仲間と共に始めてからかれこれ8年になります。『福祉コミュニティの創造』という理念を掲げて、〝介護〟をキーワードに毎月1回の集まりを今日まで続けることができました。その間、『福祉コミュニティの創造』と題してフォーラムをも開くことができ、社会へのアピールだけでなく、支援NETの仲間の縁をさらに培う機会となりました。
 人が『生きる』ことと『活きる』こと、その大きな違いはどこからくるのか。『福祉コミュニティ』を語るその核心は、どうやらそこらあたりに答えがあるようです。人がただ生きるから、活きる制度・政策のあり方や、人が活きるに繋がる人の縁を私達はどのように育てていったらいいのでしょう。それらは毎回の課題でもあります。


 私事ですが、昨年の夏から母の支援をすることになり、他人のお世話でなく自分のこととして介護と向き合う機会となっています。
 坂道が続くという地域性もあり、膝を痛めた母が買い物や診療所に自力で行けなくなりました。永年生活のため気丈に働いてきた母ですが、人のお世話になることとなり、まだまだ導入域ですがまずはデイサービスの利用です。膝を痛めてから外に出ることが少なくなり、人との出会いが減った母にとって、週1回のデイは人と繋がる一つの機会となりました。
 母の家のお向かいのおばちゃんやおじちゃん(80歳近い)が、足を引きずってゴミを出す母に『僕が出してあげよ』と、声を掛けてくれます。乾いた玄関先の植木鉢に水をあげてくれます。私が行くと『女の子はいいなーうらやましいわ!』と言って褒めてくれます。仕事にかこつけてあまり手伝いにいかない私ですが、なんだか嬉しくなります。他人が手伝ってくれているのだから『私も頑張らな!』と思えます。それらは次代に繋ぐことになるのでしょう。子世代、孫世代も見ています。
 そのことをおじちゃんおばちゃんは教えてくれています。


 こんな、昔はよくあった隣近所の光景が今の世は少なくなっています。
 介護保険の制度政策では創れない福祉がそこにはあります。
 介護が必要となったとき制度政策の役割、人を活かす縁の役割、その二つがうまく機能したとき、人をただ生きるではなく、活かすことができるのでしょう。


 それぞれの人生の終末のありかたは、その人の生き様だとよく言われます。
 自分が生きてきた、そのように先の絵を描いていくしかないのだろうと思うと、心が引きしまります。


 来月12月1日は支援NETのクリスマス会です。皆と場を創り出そうとする姿勢はこれからのコミュニティにおいて、これまで消費社会、競争社会に浸ってきたゆとりのない私たちの姿勢をも振り返るよい機会です。

2010年 10月1日 もっと障害が重いほうがよかった

ナツユキカズラ



 何日か前の軽度知的障害者への訪問介護養成講習で・・・・・
 講義の最後に時間を取りました。
「ちょっと時間があるからあなた達の悩み事、ここにいるみんなで共有したいと思うんだけど! 話す、話さないは自由でいいしね」
 一口に軽度知的障害の人が対象といっても様々な人がいます。交通事故で高次脳機能障害の人、脳のどこかに広範囲に及ぶ障害のある人、あるいは重複した障害をもつ人、脳性麻痺、中には生まれもって障害のある人、障害のために学習適応ができにくかった人、生活体験ができなかった人、「あなたはいいよ!」といって置き去りあるいは好意的配慮などで甘やかされてきた人、邪魔もの扱いされてきた人です。
 いわゆる健常と言われる人と、目に見える障害を持つ人との境界にいる人、彼ら彼女らの苦しみに改めて気がつく思いでした。


「うち、もっと障害が重いほうが良かった。だって見える障害がある方が『かわいそうに』なんて思ってもらえるけど、私には『こんなくらいできるでしょ!』って言われるもん」


「僕はてんかんのあること隠している! 言ったら雇ってもらえへん! せやけど働いている最中にてんかん起ったらどうする? 見える障害があるほうが良いなんて言えへんでー」


 健常者により近い人ほどこのような苦しみを抱えています。意味理解の困難な人、こだわりのきつい人、漢字の読み書きの不得手な人、時間の観念の解りにくい人、ほかさまざまです。みんな、ほとんど見た目には解らないのです。就業して気がつくのでしょう。


 母は小学校低学年から学校に行けなかったので、私の幼い頃、仕事から帰ってから夜遅く漢字の練習をしていたことを思い出します。しかし、彼ら彼女らの苦しみはそういうものではなく、自らの努力ではどうしようもないところの障害を問題とします。
 確かに言えることは、彼ら彼女らも当然、幸せな人生を願っています。では彼ら彼女らが自らのがんばりのどこに焦点を当てれば社会の歯車の中にうまくかみ合うことができるのでしょう。いや歯車にあえて合わせなくとも、自分なりの幸せな人生を目指して、どう歩めば良いのでしょう。


 ある事業所の訪問介護ヘルパーに、軽度の知的あるいは発達障害のある人が健常者に交じって介護チームのメンバーを果たしているという話を聞いています。制度政策の働きもあり、このような体制が可能になっているようですが、利用者の温かい理解あってこそ働けるようです。なかには健常者並みの仕事が可能な人もいます。
 しかし障害を障害として隠さず、できる能力範囲のことをして、それでも社会人としてのチームに組み入れられることが本当は幸せな将来に近いような気がしてならないのです。ここで大切なことは、決して介護チームの質は落としてはならないということが前提です。福祉の本末転倒になってしまってはけません。
 資本主義の経済競争にあって、今まで置いてきぼりにされてきた人々の人材をも活かす就業体制こそ、誰もが育まれ、ゆとりが開かれた未来を創るのだと確信します。彼ら彼女らの資質が生きてこそ、成熟した資本主義社会ではないのかと思うのです。

2010年 9月1日 あんた、いらんこと言わんといてや!







 デイサービスに行った次の日はえらく疲れている母に『デイに行って疲れてどうするの!ケアマネさんに相談したげるわ!』なんて、母のこととなると私もただの家族です。返って来た言葉が『あんたいらんこと言わんといてや!デイサービスに楽しんで行ってるのに!』。


 母が介護保険のサービスを受けるようになって半年になりました。
 先日見直しの認定調査があって、結果は変らず要支援2でした。
 デイサービスをとても気に入っていて、週1回のデイサービスに喜んで出かけています。変形性膝関節症で歩行にかなり障害があるけれど気丈な母は、職員さんを初め、デイの利用者さんと仲良く楽しくやっているようです。今、その話を聞くのが楽しみでもあります。
 当初は、デイ利用から脱して母の好きな大正琴や民謡など永く続けていた趣味の会に戻ることを期待していたのですが、なんとデイがその代わりになっています。代わりどころか楽しい出来事を話す母から、私の福祉観を見直すきっかけをもらった気がします。


『ケアマネさん来はったらお茶出してな!』って言う母に『出さんでええねん!私は訪問するときお茶もって歩いているえ!』、『介護保険の利用者さんからお茶だしてもらうの?そんなんおかしいやん!おばあちゃんがだんだん負担にならへんかったらええけどな、・・・・・』。
 初めてケアマネさんがみえた時に立ち会った私は、『お茶って出されても飲まないですよね!』なんて母の前でケアマネさんに言ったので、『あんたがいらんこと言うから、○○さんお茶、飲まあらへんやん。』。『そうやけどヘルパーさんも同じやよ!』、『おばあちゃんがどうしても出したかったら出したら?』(お茶を出したくても出せない利用者もいるし・・・なんて考える私は苦労性なのであります。そしてお茶一つで負担になってもらったら困るのです。・・・でも、ヘルパーさんとお茶を飲むのを楽しみにしている利用者もいます)
 ちょっとしたお茶談義でした。


 ヘルパーさんにお茶を出すか、出さないか、私は介護講師として講義するのとホンネと同じであるよう、○か×ではなく、支援として利用者宅のお茶を飲むことのその根拠を考えてしまいます。 考え過ぎ?固い?
 今、介護保険を利用する母に対して、利用する以前の母より人間的に好きになるきっかけを育てる適切な介護支援のお世話をしてくれたケアマネジャーさんに、そしてデイの職員さんに、『ありがとうございます』と、お茶よりもおいしい心と言葉で伝えたいと思います。


 そしてこれからも山あり谷ありでしょうが、母をはじめ、介護支援の多くの利用者さんが適切な自分のライフプランが描けるよう切に願います。

2010年 8月1日 介護日誌の〝風景〟







 棚を整理していましたら、介護日誌の古い下書きが出てきました。


ゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10カ年戦略)のもと、今から20年前頃ヘルパーの養成が始まった1989年、私たちヘルパーは支援を必要とする人たちの役に立とうと頑張っていました。指導者たちも支援のその中身を模索し、生活者もどのように支援を受けるのか、支援者もどのように支援するのか手探りの頃だったのだと記録を読みながら今思い返しています。


 当初の予定より高齢化が進み1994年全面的に改定されたのが新ゴールドプランでした。それでヘルパーの数が大幅に増員されていきました。
 そして2000年4月の介護保険制度の導入、今、『いつでもどこでも介護サービス』、『高齢者が尊厳を保ちながら暮らせる社会づくり』、『ヤングオールド(若々しい高齢者)作戦』の推進、『支え合うあたたかな地域づくり』などの目標が掲げられ、ゴールドプラン21は、いかに活力ある社会を創っていくかを目標にしています。


 20年ほど前の介護支援は先ほど書いたように生活者も支援者もその支援のあり方を模索していました。20年の歳月が過ぎ、介護支援のあり方は専門性を育んできたのでしょうか?
 ヘルパー制度のできた頃の介護支援は、看護もそうだったように良くも悪くも熱いヘルパーに支えられて、家族的な色が濃かったようです。昔は良かったと言う人もいますが、今後多くの高齢者を永く支えるために介護の専門性の追求は欠かしてはならないでしょう。そこにはエビデンス(根拠)が必要です。家族介護との違いはここです。


 介護ヘルパーの人材不足が問題になっています。特に在宅を支える人材です。就職難の社会でなぜ人材が不足なのでしょう。「私も介護士になりたい」と競って学んでくれるような魅力的な仕事にどう近づけられるでしょう。
 看護師が看護業務の人材不足を介護にゆだねたように介護士もその人材不足を今後どうしていくかの課題があります。


 ヘルパーになりたての頃の懐かしい介護日誌には寝たきりの高齢者を訪問看護師さんと私とで、ベッド上にしつらえたビニール浴に湯沸かし器の湯をホースで引いて、そこに入ってもらい、実に気持ち良さそうな主の笑顔に出会った様子が書かれていました。
 生活者のライフプランを支えるためにホームヘルパーの役割は大きいと思うと同時に、生活者を支えるあらゆる専門職のチームケアー、そして生活者自身、家族、地域、それら生活者を取り巻くネットワークがうまく機能するようにその一端を誰もが、担っていかねばと思います。

2010年 7月1日 看護と介護







より良い介護、支援NETWORK創設以来の目標のひとつでもあります。
 看護と介護、その違いを考えてみました。


 人類はその誕生と同時に病む苦しみに逢い、それを癒すことを必要としていました。身近にいる人が痛いところをさすったり、静かなところに寝かせつけたり、高熱を和らげるために額に冷たい布をあてたりして、病人の痛みや苦しみを癒すようにつとめました。人類の誕生とともに行われていたことは、治療行為ではなく、看護行為だったのでしょう。このように自然発生的に行われていた行為を専門的な知識や技術で裏ずけて専門的な教育訓練へと高めたのがフローレンス・ナイチンゲールでした。
 近代看護の土台を作ったと言われるナイチンゲールの看護についての考えを見れば、看護と介護は源を同一にしていたと見られます。そこから看護と介護が分化したと考えられます。


 看護婦業務は診療補助(医療補助)と、身の回りの世話(生活を支える介助)でした。
これら看護業務のうち、いわゆる診療補助といわれる医療処置が優先される形態がとられてきました。
 医師が出す指示にもとづき、点滴類の管理や血圧・呼吸などの測定・注射・薬の管理などが優先して行われるようになりました。
 一方で療養上の世話(生活援助)は、看護婦不足のあおりも受けて病院の中では家族や付き添いにゆだねられることも少なくなかったのです。


 医療の進歩に伴い寿命が伸び、看護はもとより介護は短期の病人の療養上の世話の域を超え、在宅生活、施設などの生活者の長期にわたる生活支援を必要とするようになってきました。また、社会も一定豊かさを経験してきました。
 そのなかで介護を生活者の尊厳ある生活を守るという視点に立ってその専門性を考えた時、まだまだ元気な生活者を長期にわたって支えるとき、生活者のニーズにどこまで対応でき得るでしょう、また生活者として、どのような支援をニーズとするでしょう。
 サービスが良いとか悪いとかの問題ではなく、生活者の尊厳ある生活を守るという視点で、限られた人的資源、限られた経済など多くの課題をどう対処するのか、生活者として、支援者として、今一度再考したいと思います。

2010年 6月1日 太宰治の『葉桜と魔笛』







 同じ団地に住む寂しそうなおじいさんに「こんにちわ」と言えた。
 ある時、「お帰り!」って返してくれた。
 内気な彼女の精一杯の頑張りだった。
 彼女の嬉しそうな笑みは幸せを表現していると思った。


 人は何を幸とし何を不幸とするのでしょう。
 「何が幸せで、何が不幸せ?」
 このところ私のテーマとなっています。


 その人の幸、不幸、それは当たり前ではあるけれど、その人の価値がどこに向けられているか、なのだろうとあらためて思います。
 私の介護士としての経験の中から多くの人の人生をみてきて、生命の維持すら他人がかりである人を思うとき、それが当たり前に与えられている人が思う幸、不幸、それを物差しで測る。その愚かさを感じます。


 生徒たちに、太宰の優しさの極めつけ「葉桜と魔笛」という短編を読みました。太宰は、人の優劣は人の優しさにあると友人への手紙に書いています。(静岡新聞)


 海援隊の「贈る言葉」の歌詞を読みます。
  人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから ♪♪♪
 彼女の肩をなでました・・・

2010年 5月1日 生徒の眼差し


 先日、私が担当するある教育機関の介護研修の一コマを支援NETWORKの仲間に助けてもらいました。
 他事業所での研修でも時々仲間に助けてもらい、より専門的な立場から、より利用者サイドからのお話を伺う機会を得ることができています。
 よりよい介護とは?とみつめてきた支援NETWORKの8年の歳月、介護士としての実践の中で、理想を言うのはたやすいことだとひしひしと身をもって感じています。けれど理想を態度としてあらわそうとしていること、そのことが大切かな、と思うのです。


 大事なことはM・メイヤロフも言うように『互いの成長』です。くらしを利用者と共に創り出すことから生まれる成長し合うことの意味を感じること。
 その意味でも仲間の存在は大きいです。
 次にはもっとたくさんの支援者が現れることを念じています。そしてその輪が私も、僕もと広がって実のある介護研修ができ、真に利用者の心に触れる介護士が育ってくれることを願ってやみません。
 もちろん私こそまだまだ多くを学ばなければなりませんが・・・・・
 これから先には要介護者となるかもしれない支援NETの若い仲間も、そして私と出会った介護研修生も、さらに関係した全ての人と育ち合うことの喜びを分かち合いたいと今さらながら思うのです。
 今、少々疲れた心に晴れ間を見せてくれたのは他ならぬ、ある教育機関の若い生徒たちの真摯に学ぼうとする眼差しです。


2010年 4月1日 みんな、がんばって!!


彼は発達障害と診断され、まだ幼い今から社会との接点と闘っています。早期支援とやらで診断は前向きにとらえられています。知らずに大人になっている人も多く、障害とは本当に人ごとではないとつくづく感じます。
 最近の社会の取り組みで、彼は自分と社会との接点でのしんどさを幼いながらも自ら知っています。障害を個性ととらえるならば言葉だけではない本人も含めた社会の成長を必要としています。


 彼女は、小学校低学年から学校ではなく病院での学習生活を送りました。幼いころからさまざまな好意的配慮からではあるけれど、社会との接点から遠いところにいました。好意的な配慮とは、排除?・・・ そうなってしまわない好意的な配慮をも考えなければなりません。


 同級生の彼女は、成人してから股関節の状態が悪くなり、先日両足に手術を受けました。かなりリハビリが大変そうです。
“リハビリに飽きたころ頑張りやって言いに行くわ”って言ってしまった私に、メールで“頑張ってナ”に弱いねん!という言葉が返ってきました。励ましより共感ということがどこかに書いてあったことを思い出します。
 そういえば軽度ウツと診断された娘に“がんばりや”という言葉を時として使っている私に気がつきます。娘は果たして私の真意を受け取ってくれているでしょうか?
 友人と重ねて心が痛くなってしまいました。
 先日お見舞いに行ったら“頑張っているよ”という彼女の言葉から“ありがとう”を感じました。でも、言葉は丁寧に語らないと、と思います。


 統合失調症の娘をもつ友人は、就職する時、病を隠すようにと事業主に言われたと言います。本当は障害ゆえにできないことを伝えて無理しないで働いたほうが・・・・と親である友人は言います。言ったほうが良いのか言わないほうが良いのか、障害を個性ととらえるならば言葉だけではなく社会の一人一人の「人」の成長が問われます。
 どれをとっても現実の態度として表すのは難しい。でもこれらは制度、政策以上に明らかに私たちの態度にかかっています。

2010年 3月1日 おとしもの





 母の支援をして数ヶ月になります。
 元気な頃の母は、駅まで、病院まで、スーパーまで、長い坂を永年歩いてきました。膝を痛めてからはタクシーを利用しています。ワンメーターの短い距離なので毎回少しのお礼を渡します。『渡さないでいいのに!』と言う私にはかまわず黙って渡します。
 ○○市は小さい町で、業務独占というか、○○タクシーを電話で自宅まで呼べるようになっているそうです。ですから他の会社は選べません。そして運転手さんの個人的な指名はできないようになっています。
 恵まれた経済環境にあるわけではなく,他に今を活きるための手段がなく、週に何度もタクシーに乗りますので、ワンメーターといえどもたまったものではありません。
 また、乗ったタクシーが、当たり前に気持ちよく対応してくれればそれに越したことはないのですが、なかには邪魔くさそうな気配を敏感に感じとるのは同乗する私が身内だからでしょうか。母にとってはもったいないという思いと二重の苦となります。
 タクシーは一つの例ですが、支援を必要とする人は、活きるうえで、いつもこのような圧力を受けているのでしょう。


 もう15年も前になりますが、最重度の障害をもつ車いす使用の青年が自宅から友人に会うためにリハビリセンターまでタクシーを利用していました。
 今でこそ、介護タクシー、そして車いすのまま乗り入れのできる車が頻繁に走っていますが、当時はまだ普及していませんでした。
 タクシーの運転手に頼むのも,肩身の狭い思いで仕方なく身体を担いで乗せてもらうのも、彼にとってそれは、久しぶりに友人に会うということで命の活力を維持するためには、どうしても通らなければならない通過地点でした。
 制度や環境、ずいぶん良くなりました。
 しかし、なぜ孤独死や精神を患う人が後を絶たないのでしょう。社会の環境や介護保険でのサービスが豊かになる一方、皆がそれに頼ってしまって、ほんとうに大切なものを、落としてきたような気がします。大切な何かを簡便さと代替えしてしまったことに多くの人が気付かなければなりません。
 それは母自身も、私も、最重度の障害を持つ彼自身も、です。
 それぞれの人たちが、今ある社会を築いてきたのです。
 その彼は、苦悩したまま帰らぬ人となりました。
 何が彼を救えたでしょう・・・・・

2010年 2月1日 大根オブジェの教訓(おしえ)

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 昨年秋に蒔いた大根の種が立派に育ちました。お初に収穫した大根は、あまりの嬉しさからオブジェとして正面玄関に生徒が飾りました。
 畑のことは何も知らない先生と生徒でとにかく蒔きました。
 何年か前は畑だったらしいこの場所は、今は使われてなく荒れ放題の場所でした。
 そこに美しい花が咲いたら、介護の授業で車いす操作の練習をかね、授業の中でのコミュニケーションの場所になるとの思いがありました。
 暖かい秋の日差しを浴びての畑作業が、生徒はもちろん私達にも温かい思いを通わせました。私達の思い入れの強さに何人かの先生が動いてくださいました。車いすで走行しても危険のないよう傷んだ渡り廊下の木材の修繕、予算を組んでない急な作業でした。
 土作りから石灰と肥料を施し、種を蒔き、芽が出て、間引きして、草引きをして、ときどき牛糞をまぜ、たんねんに虫を捕り、みずみずしい大根の葉についた水滴など楽しみながら、2ヶ月ほどして、白い大根が地面から盛り上がってきたときにはさすが嬉しかったです。
 そして先日、生徒たちとその大根を掘り起こし、味噌汁をつくって収穫の喜びを共有することができました。


 春になったら車いすに乗って花を見に行きます。この場所で多くのことが学べるような気がします。介護は愛でることから始まります。
 愛でることの意味を大根が教えてくれています。

2010年 元旦 未来が見えてくる

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 今日から2010年です。
 昨年も支援NETWORKのこの場で出会ったみなさん、今年もよろしくお願い致します。よい年であった人もそうでなかった人も、よりいっそう笑いのある温かな支援NETWORKの場を共に創れたことを大切にしたいと思います。
 昨年の感想の中に「私事でちょっと辛いことを抱えているのですが・・・」と書いている人がいました。彼女の笑顔は最高で、その笑顔がずっと見られる支援NET の場でありたいと思います。


 二つ隣の駅に住む母が膝を痛めて、私は昨年暮れから買い物や掃除など手伝いに行くようになりました。未婚の弟が一緒に住んでいて、いざというときは心配ないのですが、弟の将来のことを心配する母のことを思うとやはり気がかりです。今まで「肉親の介護をしたことのない人にはわからないわ!」のようなことを言われてきたのですが、「やっと?」私にもやってきました。
 弟も、ここでは書きませんが高度経済成長の歯車に乗り切れず色々苦労しました。そのこともあって病が重なり、なかなかこれから大変そうです。


 年末書類の整理をしていますと、私の2008年の覚え書きノートの中に、東京大学名誉教授の清水博氏の講演の記録がありました。中身が細かく記録されていて、感銘した内容だったのを思い出します。
 人が〝生きている〟という意味と〝生きていく〟という意味との違いが書かれています。そして昨年11月の「大切なこと」に書いた西村佳哲氏の言葉にもある〝何のための仕事?〟と言うフレーズと同じ〝何のための忙しさ?〟を目にしました。その下に〝本当に意味のあることやっているのかな?〟と書いています。


-------- 社会はメガマシンだ。人間はメガマシンの部品にならなければ生きていけない。そしていつまでもメガマシンを回し続ける人は社会的な存在意味があるとされる。ない人は価値がなく、格差社会となる --------
-------- そういった社会の歯車に乗っかって〝生きている〟のではなく、どういう人生のドラマを生きていくのが人として幸せなのか --------
-------- それにはドラマを演じる場所がいる --------
-------- 生きていくとは、未来が見える、〝生きていく〟意味が創られていく --------


 まだまだ清水氏の言わんとする意味には遠いかもしれないけど、今の私なりに理解すると、未来に開かれた場をもてる人、創れている人は幸せなのだろうと思います。
 遠巻きにでも支援NETが人の〝人生のドラマ〟の一つになることを願い、また一年歩んでいきたいと思います。