〝大切なこと〟2007

   2007-1-1〜2007-12-1

 

20071201 問題提起!!

 学校教育法などが改正され、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)や高機能自閉症などの発達障害を支援の対象に含めた特別支援教育が、いよいよ2007年度から制度として実施される事となりました。
 LDなどの特別な教育ニーズを持つ子供たちは、全体の6パーセント在籍するという推計値が出ています。すなわち各クラスに1〜2人はいるという計算になります。その境界からわずかに外れた子供を含めると、対象になる子供たちはもっと多くなります。
 先日、○○学校の研修に参加しました。そこでの講師のお話の中に、重要なメッセージを受けとめて帰りました。
 そのメッセージとは・・・・・講師の長男の通う小学校の参観日でのことです。参観日に出席した彼の妻は、教室での乱暴な子供の行動について、「あの子が障害児だったら一連の行動は理解するし、許せる。一度その様子を見に来てほしい」と、彼に頼んだそうです。
 この問いはとても意味が深く、私たちへの問題提起です。
 あなただったらどう感じ、どのように返事しますか?


 LDなど発達に障害のある子供たちは『学び方が違う子供たち』と言われます。その一人一人の特性を活かし、工夫することや配慮することはクラス全員に解りやすい授業になるそうです。それはクラス全員の子供たちに居心地の良い場となります。
 今後期待されるこのような特別支援教育は、学力低下や不登校、校内暴力など現在の教育が抱える諸問題の解決に繋がると考えられています。


 今回の問題提起は、コミュニティでの関係性の繋がりと深くリンクしています。それは学校教育にとどまらず、私たちに向けての問題提起でもあると強く感じるのです。居心地の良い社会は、障害の有無、種別それらを超えて創造していかなければなりません。それは健常と呼ばれる人たちにも優しい社会です。

20071101 福祉コミュニティの創造

 ♪言葉でなく、ものでもない、ひとつの出会いから・・・♪
 バイオリンとギターの音色に彩られたフォーラムの最終章は、“さだまさし”の『天までとどけ』という曲に私たちの今回出会ったすべての人への思いを託しました。
 くらしの支援NETWORKを起ち上げ、この5年間多くの人に助けられてきました。5周年記念のその日は、約200名の参加者の方々と共に市民フォーラムの場を創り上げることができました。皆様ありがとうございました。


 感想の葉書にはこぼれるほどの温かな言葉がつまっています。なかでもスタッフに対する“温かい笑顔と配慮”への謝辞には、私までもがスタッフへの感謝で胸が熱くなります。
 ほとばしる充実感から少し解放された今、この積み上げられた関係性をさらに大切に育ていこうという決意を新たにしています。スタッフにはお招きした方々と共に♪言葉でなく、ものでもない・・・♪ 相互の関係性を大切に育んでいかれることと確信しています。
 介護保険をはじめ制度や政策は重要な課題です。しかしその基底としてのコミュニティにおいて、高齢者・障害者・健常者さらに外国人を含めたさまざまな人々との積極的な交わりから、互いのくらしを尊重した関係を創り上げようとする一人ひとりのその意思的な行為が大切と思います。それは私たち一人ひとりにもできる具体的な目標となるはずです。
 こうした関係の成果はなかなか表面化しにくく、大切だとはわかっていても後回しになってしまいます。しかし、自分にもできるこの意思表明としての実践こそが制度や政策の基本になるのではないでしょうか。

20071001 ようこそ支援NETへ part2

 いよいよフォーラムまでカウントダウンです。
 フォーラムの参加者は、参加を受け付けた人との関係性に基盤をおいています。それはフォーラムの内容が、関係する多くの人に寄与できるものであり、その後の互いの関係性がさらに成長するものと期待するからなのです。こういう関係性をM・メイヤロフは「ケアーすること」、そしてそれは「たがいに成長するのをたすける関係」だと言っています。
 一般的には「ケアー」の意味を介護や医療と結びつけています。しかもケアーする側の一方的なものとして捉えがちです。
 メイヤロフのケアーに当てはめれば、参加者はフォーラムの場を参加というかたちで創り上げる人として、そしてフォーラムの場は参加者に相互に寄与できるものとしてその中身を創っていくことになります。少し難しいかもしれませんが、人と人との関係性を「互いの成長を助けるもの」として捉えれば、私自身の関係性のありようが見えてくるように思います。
 コミュニティにおいても、このような関係のあり方を育てていきたいと思うのです。

20070901 ようこそ支援NETへ part1

 5年前の10月「よりよい介護教室」と銘打って、利用者さんサイドに立った介護のあり方を探って、私たちのワーク(活動)の第一歩を歩き始めました。ちょうど「介護者サイドから利用者サイド」への介護の視点の転換がタイムリーでした。
 京都市内のあちこちから介護を学ぼうと、午前の部と午後の部それぞれの時間、多くの参加者で賑わったのです。利用者さんからの視点にたった介護技術への取り組み、そしてそのこころ(態度)への取り組み、あるときはコンサート、落語会またあるときは当事者さんの話などなど、50回の企画を丁寧に積み重ねてきました。
 いま強く思うことは、介護は人の「暮らしの一部」にすぎないこと。それは長年の「暮らしの延長線上」にあること。だから「暮らしは創る」もの。それは与えられるものではなく、そこでの人と人との互いに織りなす関係が暮らしを創りだします。
「暮らしを創る」中身はなかなか深く、一筋縄ではいきません。だからこそその人のもつ固有のやりがいがあると思います。支援ネットのこの場は、今や育ち合える関係のプライスとなっています。

20070801 言うは易し行うは難し2

 フォーラムまで2ヶ月となりました。介護研究会は50回を迎えます。
 毎月1回そしてまた1回と丁寧に準備し集いを重ねてきました。この50回の重みは実に感慨深いものがあります。
 「新しいコミュニティづくりは至難の業のようにも見え……」と広井良典はその著書「持続可能な福祉社会」で語っています。実にその至難の業に向けて50回続けてきました。毎回々々、絵手紙を描きながら支援NETWORKのこの集いに花を添えてくださったMさんは今年90歳になります。その彼女を見ていると身近な生活の場にある活動の場がいくばかりか彼女を勇気づけたことを思うとき、前に進む大きな勇気が出ます。ただ楽しい時間を過ごす『場』というのではなく、自身の描く絵手紙がたくさんの人たちに喜ばれているという思いが、とてもとても大切なことのようです。さらにそこで自身の成長も喜べる、そんな時間を仲間と共有できることは人が『生きて』、『活きて』いることを実感できるということなのでしょうか。


 今日、国際交流会館の現地での打ち合わせに集まりました。テーマは『福祉コミュニティーの創造』。私たちの意識が地球環境をも含む持続可能な福祉社会への思いの高まりへと繋がっていってほしいと願っています。そして私自身そんな人と人との関係の中にあってなおくじけそうになる時、そんなときこそ高邁な思いを持ちつづけたいと思うのです。

20070701 言うは易し行うは難し

 私たちが取り組んできたことの目標は、人と人との関係をバリアフリーに近づけること。
 言うは易し、行うことは難しです。
 物理的な環境面のバリアはトイレや段差など私のうちには多くの問題がありますし、バリアフリーにするには多くのお金が必要です。しかし心のバリアフリーとなると、お金では解決できません。けれども人と人との関係がおよぼす心のバリアフリーは環境面のバリアを吹き飛ばします、といっても過言ではないことを多くの人は知っています。そこには双方の大きな勇気と行動力と時間が必要でしょう。そして、そこにはM.メイヤロフの言葉で言うと「他者の成長を助けること、としてのケア」があります。
 以前にも取り上げたメイヤロフの名著『ケアの本質 ---生きることの意味---』の序章で、「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することを助けることである」とあります。ここでのケアの対象は介護関係だけではないことに注意したいし、介護される人がケアする場合だってあることも知っておきたい。どんな場合も関係は双方のものなのです。


 もう一つ目標があります。
 障害を越えた人と人との関係です。知的に障害のある人にはできるだけ情報交換しやすい言葉で話すこともひとつ。心の病になってしまった友人に対してはこれまでの関係の善し悪しでその後の関係が決まってくる、とは私意ではありますが。自閉症の人にはその障害の特徴を知った上で関係を築いていかなければならないでしょう。肢体に障害を持つ人には生活上の何に困っているのかも知らなければなりません。さまざまな人との関係をよいものに育てていくということは、出会った人との関係を大切にしていく態度/行為に他ならないのでしょう。関係は積み重ねでもあります。


 折しも嫁いだ娘から電話がありました。4歳の孫が自閉傾向にあると保母さんから指導があったようでした。近々児童相談所に行くそうです。私は彼に何をしてやれるだろうかと考えます。これまでの支援NETWORKで学んだ多くのことを日々の生活に活かしていくことが問われます。先月お伝えしたミヒャエル・エンデの『時間』という概念も私の脳裏をよぎります。

20070601 時間泥棒とモモ

 先日、ミヒャエル・エンデの本『モモ』を久しぶりに手にとりました。時間とは/生きる意味とは/本当の幸せとは/本当の豊かさとは/と、心を揺さぶられたのは何年前だったでしょう。
 高効率化の時代に生かされてきた私たちには、ハッと気づかされる一冊です。まだ読んでない人は、時間泥棒と戦う不思議な少女のこの物語を読んでみませんか?


 昨日、10月のフォーラムの後援依頼に行ってきました。
 さすが後援依頼にと選んだ機関、とても丁寧に話を聞いてくれます。くらしの支援NETWORKという以外にたいした肩書きのない私の名刺を手にして、「NPOですか?」「規約は?」「会員は何人ですか?」など、私にはノーという答えしかないことをまず聞かれました。
 この5年間、法人(NPO)にすることは皆で考えないことはありませんでした。くらしの支援NETWORKのはじまりは「介護の利用者主体とは・・・」だったのです。その利用者というのは、将来介護の利用者となる可能性のある健常者を含めた市民一人ひとりのことでした。
 純粋に利用者主体を問いつめていくと、現在のくらしの支援NETWORKの“かたち”になりました。参加は自由ですから毎回何人集まるかわからない/参加者が場の創り手/会費はお茶菓子と資料代と一人30円の福祉行事保険代/大切にしてきたことは、参加者のその人のもつ能力を活かすように自分も周りの人たちも活動するのです。エネルギーを出し合い、そのエネルギーを育てる。そしてそれぞれの日々の生活、大げさにいえば生き方に反映することになります。
 そこには法人であることも、利益追求も、会員制も必要なかったということです。ただ必要だったのは「人を活かす」ことと「自らを活かす」ことだけ、たったそれだけのことだったのです。たったそれだけのことですが、それを育てることに時間をかけてきました。それに夢をつないできました。
 10月7日のフォーラムは私たちが育ててきた「大切な時間のなかみ」をご披露することになります。
 きっとやさしい時間になることでしょう。

20070501 子どもと地蔵盆

 今年も夏になれば、京都では地蔵盆の日がやってきます。
 子どものころ地蔵盆を心待ちにしていた人は少なくないと思います。しかし経済至上主義の背景から個人が自身の領域のみに忙しくなり、地域の関係が稀薄になっていったころから、地蔵盆も例外ではなく形式のみが一人歩きするようになりました。その中身は多くの場合、地域の繋がりを育むものにはなっていないようです。
[役]にあたったら大変だという意識が先行してきました。
 孫がことし幼稚園に入園しました。その子が昨年、一昨年と地蔵盆の日には朝早くからお地蔵さんの前に行きたがります。おかげで家族は子どもに連れられて出向くことになり、ふだん顔を合わすことのない人とも話す機会を得ます。そこでほんのわずかなひとときですが地域の人とふれ合います。最近の子どもは地蔵盆なんて楽しんでなんかいないのかと思っていましたが、孫の様子から子どもの楽しみを奪っているのは大人の方ではないかと思いました。
 私が子どもの頃はお地蔵さんを媒介にして、大人も子どもも地域は繋がりをもっていました。その中身も行事を組み立てる中で、大人も子どももそれぞれに役割があって楽しんだものでした。いま社会の現実は、このような関係創りのゆとりを失っています。
 今年も夏になると地蔵盆の日がやってきます。孫はまたお地蔵さんの前のゴザに朝早くから座りにいくでしょう。形式だけになった地蔵盆ではあるものの、少しでも地域の人たちとの関係が温かなものに繋がって欲しいものです。
 昔のままの地域共同体の姿ではなく、これからの時代に相応しい地域の繋がりの工夫を私たちはあきらめる事なく創り出していく必要を感じています。多くの人が今、その必要を感じているのだと思います。でも煩わしい事やお役はゴメンなのでしょう。では、今の時代に合ったコミュニティのありかたとはいったいどのようなものなのでしょうか?
 支援NETWORKの活動を社会へのひとつのモデル提案として、秋のフォーラムでは皆さんに参加していただいて何かしら豊かなものを感じていただけると思います。

20070401 市民フォーラム序奏

 くらしの支援NETWORKは5周年を記念して、この秋に市民フォーラムを企画しました。「福祉コミュニティの創造」(仮題)は、秋のフォーラムに向けての課題、そしてくらしの支援NETWORKのこれからの課題でもあります。これは「市民が発信する新しい地域の繋がりを創る」提案です。
 幸せの追求は人が生まれてからその生涯を終えるまで続きます。そして誰もが願うものです。そこには人と人によって積み上げられる関係創りが大切と考えています。ここでの関係とは、決して内輪の仲間同士だけの関係ではありません。
 これまでの関係は、仕事関係、家族関係、地域での関係、それらは個々に密接な関係を保っているとしても内側に閉ざされたものでした。
 これから必要とされる関係は、大きく捉えると、そのような仲間同士の内側にだけ向いた関係にとどまらず、地球生命を考慮した公共的なものを社会に発信できる関係なのだと思います。それは必ず外に向かって開かれてこそ構築されていく関係でしょう。


 この福祉コミュニティの地理的範囲は、個人や世帯間の相互の関係が中心にはなるものの、人と人との関係のもつ関係的発展性から範域を超え、そこに形成された関係のネットワークへと展開されていくと考えています。
 くらしの支援NETWORKは、当初から介護をキーワードにして研究会を続けてきました。[くらし・支援・福祉]をキーワードにすると直接的援助だけが想像されますが、それだけではなく前に開かれた社会関係のネットワーク創りを目指すものだということです。秋のフォーラムは、このような福祉コミュニティのあり方を社会関係のネットワークの一つのあり方として提案します。一人でも多くの方に私たちの実践的な提案を知っていただきたいと願っています。どうぞ楽しみにお越しください。
 フォーラムは10月7日に予定しています。

20070301 私たちにもできることがある

 寒風になびく雑草の中で、タンポポがけなげにかわいい温かな色の花を咲かせました。
 2007年3月1日のきょう、私が介護の授業を受け持った養護学校の卒業式です。介護を学びたい、と希望した生徒のうち二人がこの春から介護職としてそれぞれの職場に就くことになりました。私にいつも美味しいお茶を入れてくれたM君。彼の礼儀正しさはなかなかのもので、いつも清々しい気持ちにさせてくれました。たいくつな座学で眠いのが我慢できなくなって、「先生すみません」と言っていきなりスクワットを始めるKさん。
 生徒たちはそれぞれの障害のこと、そこから影響する社会との繋がりのこと、いろいろな困難を抱えつつも懸命に生きようとしています。そんな彼らたちを支える何か・・・・・私たちにもできることがあると思うのです。
 M君は、グループホームの夜勤での仮眠の時間、深く寝入ってしまって目が覚めず、「どうしたら起きられるだろう」と皆に相談していました。
 Kさんは、正職員としてデイサービス事業所で介護の職に就きます。彼女は介護福祉士になりたいと言っていました。私は彼女の能力ならそれを可能にできると信じています。彼女が望む、それを支えるのが本当に開かれた社会ではないでしょうか。
 それぞれの職場で障害を含めた彼らたちの個性を引き受けてくれた事業所に感謝の気持ちが溢れます。「どうぞよろしく」・・・・・と。
 そして、社会で自らの能力を発揮して真摯に生きようとする生徒たちに拍手を送ります。あなた達が健常と呼ばれる人達に与える影響はきっと大きいはずです。
 ご卒業おめでとうございます。

20070201 心ある介護って、どういう介護?

 もうずいぶん前、私がヘルパーとして油が乗ってきた頃、マニュアルにない援助を自分の判断で対処した後、チーフに報告し「その援助の意味は?」と聞かれたことがある。
 その援助の内容は覚えていないが、「援助の意味」を問われたことを思い出す。その頃、「心ある介護」を実践しようと燃えていた頃である。


 先日、ある研究会に参加されたヘルパーさんがその頃の私と同じ「心ある介護への思い」を発していた。私は、「援助の意味は?」と返した。
 在宅介護は施設介護と違い自分一人の判断を迫られることもある。そしてその行為はややもすると利用者との暗黙の了解のうちに流されることもありうる。
 利用者さんの『前に開かれた人生』に向けて専門職同士が『共通の目標や課題』に向かう。そのための専門職チームの一人ひとりが、互いを尊重した援助が展開されるよう願いたい。そしてそれらを可能にする事業所の体制、制度・政策でありたい。
 大切なのは、『介護者の心ある思い』ではなく、利用者の『前に開かれた人生』をどのように援助するかなのでしょう。

20070101 ターシャ・テューダーのくらし

 私は、以前からターシャ・テューダーの生き方に魅力を感じていました。ターシャと花と動物との暮らしを12月の写真にした2007年のカレンダーを友人から頂戴しました。ターシャ・テューダーは1915年生まれの91歳です。
 彼女は、アメリカのニューイングランド地方バーモント州の山奥で、広大なガーデンを作り、動物たちと暮らしている絵本作家です。日本でもターシャの生き方に憧れるひとが増えているそうです。
 ターシャの暮らしからは満ち足りた豊かさを感じます。彼女が大切にしているものは何なのか、私たちがとても関心をもつところです。そこから私たちが学ばなければならないことを感じます。
 人それぞれには自分が選択した価値の積み重ねがあります。
そして今があります。
 ターシャのライフサイクルの背景にある世相は、91年のあいだに大きく様がわりをしてきたでしょう。しかしターシャの大切にしてきた、彼女の求める暮らしの価値は、物による豊かさではなく自然とともにあることでした。それは世相に関係なく変わらないものでした。
 私たちは今、何を大切にするかを個々に問われる時を迎えているようです。

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