HOME > 大切なこと > 大切なこと2011

 

〝大切なこと〟2011

   2011-1-1〜2011-12-1

 

2011年12月1日



感動のお別れの式





90を超えたおじいさんが認知症のおばあさんの入院先へ、
まいにち、まいにち、15分の距離を自転車で通い、
重い認知症の幼子にかえった妻を見舞う、
そんな日々が続く。
看護婦さん達から90歳にもなって「こんな人は珍しい」と、
言われてたそうな・・・・・

葬儀の最後のおじいさんの挨拶、
『楽しかった』の言葉が参列者の心を打った。
最後のお別れまでの少しの時間、
喪主であるおじいさんは、数名の参列者の前に出て来て、
『今まで自分の時間がなかった』
『これからは好きな絵を描いていこうと思う』と、
参列者それぞれと会話する。


もうひとつ私は何とも言えない神聖な時間を共有した。
焼香の順番が来て、慰霊を前にして、数珠を持たず、焼香をせず、
止まった時間・・・・・
永い黙礼・・・・・お祈りが続く・・・・・
あーっ、こんな別れ方もあるのだ・・・・・感激した。
心地よい空気が流れた。
初老の紳士だった。


そして写真、病床のおばあさんの笑顔の写真。
きれいなときの写真を葬儀のとき用に撮っておくという話を耳にする。
けれど、歯の抜けた、白髪の、しわくちゃの顔がとてもきれいだった。


このような光景はかつてなかった。
初めてである。
これまでの別れの儀式でこんなにも気持ちがさわやかになったのは・・・・・


二日後、お礼の電話があった。
いいお葬式に参列させてもらって、私も『楽しかった』と伝える。
永年、辛かったことを思うと、想像を絶する。
けれど、『楽しかった』の言葉でいっさいが泡となって消える。


90にして『いい人生やなー』とつくづくそう思った。



2011年11月1日



介護の専門性ってなんだっけ!





 10年近く前、連れ合いが進行性未分化型の胃癌になり、術後抗がん剤の点滴を受けるため某病院に定期的に通っていた頃、ある看護師さんが注射針を何回も刺し直すことがありました。やっとうまく刺せたと思ってその場を離れた数分後、床が血の海になったという経験をしています。同様に知人も針の刺し直しを何度もされて痛い思いをしています。そういうことが続くと恐怖にもなるようです。

 話は変わって15年ほど前の話、私が介護士としてたくさんの経験を積んでようやく自信が持てた頃の通院介助の例です。対象者さんは重度の筋ジストロフィーという障害がありました。自宅からは遠方への病院へ車いすタクシーでの通院介助でした。診療時間より早く着いたので玄関前を散歩することになりました(そのころのサービスマニュアルは現在と違って良否は別として緩やかでした)。
 歩き出した玄関前は坂でした。私は車いす走行介助には自信がありましたが、彼女はひどく私を叱りました。今でも叱られたことが私の脳裏に強く残っています。その理由がなんだったのか、思い出すことができませんが、彼女は私の車いす操作を不安に感じたのです。それは私の筋ジストロフィーという障害の特性またそれが重度であることの学びと技術修得の不足からなのです。それにもましてどんな状態の人でも安全でしかも安楽に車いすが走行できる技術も、どんな状況にあっても対処できる心のゆとりも不足していました。
 車いす走行介助、家事援助は家族でもしていることで専門的に学んでいなくてもできているように思えてしまう。技術的な要求が高いとボランティアもさることながら介護職でさえ介助のなり手がなくなる。そうかも知れない・・・・・。しかし、「心があれば・・・・・」で済ませてしまう。それではいつまでたっても「介護職は大変な仕事やねー、あなた偉いねー」なのです。大変な介護の仕事をするのは偉い人、それだけで済まされてしまう。そしてするほうも「やってあげている」そのような思いに流されます。


 介護の専門職と、できる家族やできるボランティアとの違いは何なのでしょう。そこは今さらですが、やはり専門職としての技術と知識の誇りです。先の静脈注射にもあるように当然失敗は許されないはずです。安全、そしていかに安楽に快適に車いす走行のお手伝いができるかです。
 私が今なぜ静脈注射の技術と相対したかというと、ボランティアでもできる車いす走行介助、家の人がこなしてきた生活の援助、大変だけれども家族もしている排泄介助などの介護の仕事、それらを含めて看護師の仕事と肩を並べることができないのは、賃金換算することができない家族もしている仕事と同列に並べられているからだとも言えます。介護士としての仕事のひとつひとつに、家族とは違う専門性、そこに誇りを持てるような働き方を確立していかねばいつまでたっても看護師と肩を並べて利用者の生活を支えていくことはできないでしょう。


 ここでもうひとつ確認しておきたいことがあります。介護の仕事をとおして、成長できる自分を感じられる人、感じようとする人(それは専門性の中に入れてもいいくらいの特性だとも思います)は、どんどん挑戦してほしいと願っています。介護士またはボランティアが利用者さんの思いに真にキャッチボールできれば、利用者さんもきっと頑張ってくれるはず・・・・・。そこには必ず互いの喜びが生まれるはず・・・・・。共に生み出した喜びはかけがえのないものだとそう考えたいのです。
 これを甘いと思われますか?

2011年10月1日

 働くことは生きることと背中合わせで・・・ Ⅱ







〈仕事〉は〈人生〉と、〈働き方〉は〈生き方〉と背中合わせで、他の誰にも肩代わりできない一人一人の〈生〉に直結している・・・・・(西村佳哲)
自分の仕事が私の生き方につながる働き方をもとめて・・・・・(私)

 無縁社会、孤独死、虐待、高齢者の自殺、非正規労働者、貧困、そんな言葉が飛び交います。
 きょう、とある大学から公開シンポジウム “無縁社会をいかに生きる”、“無縁社会の正体” のリーフレットが送られてきました。今まさに話題は東北の震災、原発に関連したニュースと重ねて無縁社会に絡んだ悲惨な状況にあって、人々の不安を駆り立てます。


 くらしの支援NETWORKは障害者さん対象の勉強会?・・・と言う参加者がいました。支援NETは立ち上げ当初から “くらしを創る” ということに焦点を当てています。私も、もうすぐいわゆる賃金労働者としての働き方から離れます。賃金労働として働くことも当然〈生き方〉と背中合わせ・・・なのですが。
 私ごときが大げさかもしれませんが、人生の仕事としてなにか残したいと思うのは読者の中にも何人もいらっしゃると思います。


 年金生活となった人、高齢者さん、障害者さん、それぞれに何かの役に立ちたいと思っておられます。賃金労働から離れて、孫の世話、旅行、趣味、それもいいのですが、孫の世話は役目が終わるときが来ます。また趣味や旅行、食事の会などのさまざまな楽しみはそのうち行けなくなり、一人減り二人減り・・・思い出はいっぱい残ったけれど。それでよかったのだろうか? まだ私には解りません。その答えを知る年齢までに少しの時間があります。

 大切なことは、自分がこの社会に存在していて、その意味が肌で感じられるということ。いくつになっても、それを感じられないでいることはとても辛いことだと思います。非正規労働者も、ニートと呼ばれる人も、年金生活者も、何らかの障害のある人も、高齢者もそして元気な私たちでさえも例外ではないと思います。そういう意味で私たちの〈くらしを創る〉は、みんなの問題だと言えます。


 さて自分の老後はというと、お金のある人は至れり尽くせりの高価な有料老人ホームの見学会に参加して、いかにしてよい老後をとその絵を描きます。また介護保険サービスを賢く使って人の世話にならないようにと考えます。それは決して悪いことではないけれど、そこに自ら創る暮しはあるのでしょうか。そこにはみんなで互いの暮しを支える絵は描かれているでしょうか。
 それらはすべて、私たちが金銭と引き換えに捨ててきたものの中にあります。


 “無縁社会” なぜ今そうなったのでしょうか。
 くらしの支援NETが常に求めていた答えは、そこに見え隠れしているのではないかと、リーフレットを目にしながら思うのです。
 確かなことは、無縁社会のそれを誰でもない私たちが、そうなる流れを享受してきたからなのでしょう。今からでも遅くはないと・・・・・・思いたいです。
 では一体どうすれば・・・・・・

2011年9月1日

《働き方》は《生き方》と背中合わせで・・・

.




〈仕事〉は〈人生〉と〈働き方〉は〈生き方〉と背中合わせで、他の誰にも肩代わり出来ない一人ひとりの〈生〉に直結している。・・・中省略・・・人間の一番の大仕事は「自分をいかして生きる」ことなんじゃないか?
  西村佳哲著《自分を活かして生きる》より


 西村氏との出会いは、私が2009年秋介護研修の講師先のコミュニティ広場の掲示板に貼ってあった「私たちは何のために働いているんだろう・・・」そのメッセージに誘われて参加したトークセッションでした(2009年秋の大切なこと〝介護というデザイン〟)
 その後、西村氏の著書を何冊か読み、彼がファシリテーターを務めた奈良県立図書館での《自分の仕事を考える3日間》のトークセッションに参加して、いつか西村氏と支援NETが出逢える機会があればと思っていました。

 〈働くこと〉〈労働すること〉は、支援NET5周年フォーラム(2007)のテーマでもあり、何かのかたちで膨らませたいと願っていました。


 日本では自分の暮しを考える時《衣、食、住》を重要視します。人は生きていくのに、食べること、着ること、住まうことはもちろん不可欠ですが、スウェーデンでは暮らしに必要なものの基準は《住むこと、余暇、働く》という視点で考えるそうです。快適に感じられる《住む》ということ、自分を活かし社会に貢献する《働く》ということ、また自分自身を活かす《余暇》の場をもつことが、いかに暮らしの中で必要であるかを考えます。私は、働くということについて、定年退職した高齢者や機能障害のある人たちなどの《働く》を見つめていました。


 自分を発揮し、社会に貢献する《働く》ということをこれから10周年にかけて深めていきたいと思います。
 いちど皆さんも考えてみていただけますか?
 しばらくこのテーマを深めていきたいと思っています。

2011年8月1日

 エジソンの母

.

TVドラマでエジソンの母の再放送がありました。
 主人公のケント君は発達障害があります。発明家エジソンもまた発達障害といわれていますので題名が『エジソンの母』なのです。
 ケント君とその母、また母と同じ職場の人、ケント君に関わる小学校の先生たち、たくさんの人々を巻き込んでケント君は自身の問題に気づきながらも個性を発揮し続けます。
 『人が幸せになることを想いなさい』という母の助言を聞き、自分なりの発想が浮かぶのです。
 周りの多くの大人たちは、社会にそぐわないケント君の行為を排除しようとします。


 現代社会って、何を良しとし、何を嫌うのか・・・・・・
 原子力発電の大きな問題は、人間の選択がいかに間違いだらけだったかを思い知らされています。
 多くのことが、問題が起こってから・・・・・・

2011年7月1日

 社会が求めること

これが本当の〝なでしこジャパン〟のナデシコです
正式名:カワラナデシコ

 10周年を迎えるまでに1年となりました。


 私は今、正直なところこの10年を振り返り少々焦り気味です。
 支援NETの想いを10年を迎えたあともなお続けていくことのエネルギーを模索しています。これが隠しようのない今の私の正直な思いです。
 支えてくれている人みんながそう思っているかもしれません。


 かなり前向きでない『大切なこと』になってしまっていますが、本当の繋がりということを突き詰めていくほどに今の社会からは希望が見えてこないのです。
 そんな絶望感ですらあります。


 10年前に比べて福祉サービスは雲泥の差で良くなりました。しかしそれらは人が『活きる』ということにどれほどの貢献がなされたでしょう。要介護、要支援高齢者は益々サービスに依存的になり、私たち壮年の人たちは自分たちの親の介護もサービスに依存し、また自分の行く末が社会の要請から落ちこぼれにならないようサービスの使い方を含め思案しているのではないでしょうか? 健康体操なども流行していますがそれもその一つかもしれません。
 落ちこぼれた人はその人の浅はかさなのでしょうか?・・・・・


 木藤亜也さんは脊髄小脳変成症を患い、その若い命がつきるまで、その著書『1リットルの涙』の中で〝人の役に立つことのできる自分〟という課題に向き合っていました。まさに『活きよう』としていました。


 人が、『活きる』というのは快楽や気まぐれな時間にあるのではないと気づくのは、多くのものを失った時なのでしょうか?

2011年6月1日

 思い出してください

.

 2005年の秋、皆さんにアンケートに答えていただいたその論文が出来上がり、このたび関西社会学会にデビューしました。
 アンケート集計中の《大切なこと》をのぞいてみると・・・・・


 中途障害者についてのアンケートを300名のみなさんにお願いしたところ、285名の方々から誠実なお答えをいただきました。回収率95%はアンケートの回収としては驚異的な数字だそうです。
 ご協力いただいた、くらしの支援NETWORK関係者のみなさん、経済短期大学のみなさん、看護学校のみなさん、文教高校のみなさん、消防署のみなさん、川島織物株式会社のみなさん、そして北裏町のみなさん・・・・・
 ほんとうにありがとうございました。
 たくさんの方々のおかげで得られたデータは、ただいま入力と分析作業に入っています。そしてすでに有意味な結果が得られつつあるようです。
 これらのデータはこれからの日本社会の有り様についての大きな指針になります。
          《2005年11月 くらしの支援NETWORK ホームページ 大切なことより》


 それからもう6年になりますが、きちんと皆さんに答えが返せるようにアンケートの分析が文章化されました。社会学会で発表された論文の概要には、医学の発展、救命救急システムの充実等によって、高齢者も中途障害者の範疇に入る重度障害者の急増について書かれています。
 発表の題目は、----- 中途障害者における社会的『死』の構造分析 -----
 内容は、人生途上で障害を負った人々のその生き様の中身、その人生途上の社会からの軋轢。それがどういう意味を持つのか。また自らが放ってきた社会との規範が高齢となって障害を負った自分自身にブーメランとなって帰ってくる。
 私は、この論文をこのように読みました。


 例外なく今の社会の創り手は社会の一人一人、私たち自身です。
 東北の災害で起こった原子力発電所の二次災害、このことも人々のこれまでの生き様が浮かび上がってきています。
 幸せとはなにか、皆が考え始めています。

2011年5月1日

 辛口一言

.

 東北の震災後、ある政治家が「今こそ人間は今までいかに欲得で生活してきたかを見直さなければならない。復興を考えるに、人類は我欲と向き合えるかどうかである」
 選挙後の一言でした。選挙前は聞かなかった言葉です。夫はその政治家のことを選挙前、良く思っていなかったようで映像に出るたびその政治家のことを批判していました。


 私は政治のことやその人柄のことはよくわからないので聞くばかりですが、今回のその言葉にはっとしました。
「ちょっと待って! これとちゃうん? だから当選したのと・・・」
 夫は言葉を失いました。
 この言葉が本物かどうか、今後の政治家としての彼の動向、発言が試されます。


 今月初め、被災地に思いを込めてチャリティ・コンサートを開きました。
 チェロの音色は、参加者の魂をそれはそれは揺さぶるものでした。
 私が誘った友人は、みんな本当に繋がろうというメッセージを込めています。そして誘い合った人同士もこれがきっかけとなって、さらに繋がりを強めてくれればと願っていました。
 東北へのお見舞いにコンサートの参加費がすべてとどくように、毎回楽しみにしてきたお茶の時間は省こうと決めていました。


 毎月、丁寧に介護のことに向き合って来年で100回、10年になります。
 支援NETの参加者にお世話になったと、参加者であり支援NETの創り手である大切な友人の一人が、奏者のお礼と参加者が楽しめるようにとケーキを寄付してくれました。
 しかし参加者の何人かはそこに思いを馳せることなく「このケーキ、どこで買えるの?」と口々に聞いてきます。
 私は、・・・・・・・・・・
  私たちの仕事はまだまだ続きそうです。

2011年4月1日

 お通夜の日

.

 父が、暴走して走って来た少年のバイクに跳ねられてもう30年になります。二人の幼子とともに救急病院へ駆けつけた時、父はすでに危篤でした。私はまだ20歳半ばでした。
 学生生活を終えて間もなくの私は、貧乏生活から逃れるように結婚したのでろくな親孝行もできずにいました。
 やっと子供達から少し手が離れ、アルバイトで得たそのお金で、父と大丸でおそばを食べて5000円のお小遣いをあげたのは亡くなる数日前のことでした。本当にささやかなことですが、喜んで貰ってくれた父の顔が忘れられません。


 交通事故という恐ろしいことがあった次の日のお通夜、人の座る場所もない家で、私は外にいました。女の人が私の横にすり寄ってきました。
「お父さんはお金を借りておられます」
「エーッ」
 そんなわずかな言葉のやり取りがありました。事故の恐ろしさに加えて、こんなときにそういうことを言ってくる人がいるということに寒気を感じました。


 私は今、母と向き合う時間をもらいました。父とはそういう時間がないまま逝ってしまいました。父と何も話さなかったな・・・と、いま涙します。

2011年3月1日

 みんな、よう頑張ったね!

.

 永い訪問介護2級ヘルパーの研修の修了式の日です。
 生徒達は軽度ではありますが知的に障害があります。
 数名の生徒たちが正式に介護施設に採用です。


 健常者向けの教科書ではとても難しく、介護に思いを馳せる生徒達に、バリアフリー化をと思います。私には普通に使われる言葉の意味をわかりやすく伝えるのは力不足だと感じつつも、ここ数年来教科書のバリアフリ―化と向き合っています。


 高次脳機能障害の彼女は交通事故に遭い、その後10年間介護施設でボランティアをしていました。生まれもっての資質、良い介護者になろうとする真摯な姿勢それは介護士補助者として、障害をも受け入れられるものと信じて毎回授業にあたります。


 実習生となり、そのままを受けいれられた彼女もめでたく採用です。
 忘れる記憶と戦いながら介護士への思いをつらぬき通しました。
 苦難はこれからです。


『みんな、よう頑張ったね!』
 彼女はむせび泣きました。

2011年2月1日

 あっぱれ! お母ちゃん

.

 母は介護保険で言うところの要支援2です。もう1年になりますがある事業所のデイサービスに通っています。そこでの出来事をおもしろおかしく話してくれます。年をとっても今更ながら人間関係を学んでいるようです。
楽しいことや嫌なこといろいろあるようですが、いくつになっても成長はあるのだなと思わせてくれる、素直に受け入れる母を愛おしくさえ思います。
 診療所、買い物の付き添い、掃除は私の出番です。先日お昼を外で食べていると母の習い事(民謡)のお友達も来ていました。母より年上の人ですが、早く元気になって出てくるようにと誘ってくれている人たちでした。本当にありがとうございます。
 お誘いがあって4月からそこへ出かけて行こうと決めている母に『誘ってくれるからまた行こうと思えるのやねー。お母ちゃんも今度は来れへんようなった人を誘ってあげてな』と言うと、『ふん、そうする』何時からこんなに素直になったのやー!とたまげます。
 要支援2の経験を、人と人との繋がりのお役に後期高齢になっても活かせるのだと思いました。
 がんばってなお母ちゃん!

2011年 元旦

 春にはまた、モッコウバラが迎えてくれます

.

 今年の年賀状には黄色いモッコウバラを額に仕立てました。ここ数年の私の賀状は、いまやライフワークとなった支援NETが絵になっています。
 この〝大切なこと〟のページは、2004年10月から2010年末まで75編書いています。今回で76編目です。
 〝大切なこと〟を読んでいただいている皆さん、本年もまたつきあってくださいね。




 幼い頃のクリスマスイブの日、絵の好きだった私はサンタさんに画板をおねがいしました。夜、サンタを楽しみに寝ましたが、物音がしたので薄目を開けていますと、父が贈り物を置いていました。
 とても優しい父でした。
 父は訳あって屋台で夜鳴きそば屋をしていました。雨が降ったら仕事にならず、わびしそうに夕方からよく空を見上げていました。その父の後ろ姿を今も思い出します。家で仕込んだ中華出汁、そば、焼豚などを夕方から自転車にのせて白い割烹着を着て出て行きました。そんな父を私は惨めに思えて嫌っていました。
 そしてもう一人の私は、そんな私を嫌っていました。


 同級生に同じ屋台のうどん屋の娘がいました。彼女は手入れのされていないよれよれの制服で、何となくだらしなく私には見えたのですが、とても明るかったのです。お父さんの仕事を恥ずかしく思う気持ちが指の先ほども感じられなかったのです。
 彼女のような笑顔ができない私が今もコンプレックスとなっています。
 そんな私ですが、だからこそ今があるのでしょう。
 だからこそ支援NETのこの場を創っているのでしょう。


 私のほぼ60年の歳月が、今の私の生活を創っているはずです。
 それを土台にして、まだ先(?)の老いの生活はすでに始まっているに違いないのです。


 春にはまた、モッコウバラが迎えてくれます。