くらしの支援NETWORK

Flash Report
今月のワンポイント介護の時間
吉川美幸さんの語りでした


 お母さんの介護、そして永年のお父さんの介護は吉川さんお一人の手に掛かっていました。『あんたの人生は私が介護していいけれど私はどうなる!』お独り身のご自分を今日も笑って語られました。お父さんが痴呆になられてからの介護を、電話の向こうで大変ながらも笑いを忘れないで私にこそ元気を何度もなんどもくれた吉川さんを思い出します。地域のたくさんの人との良い関係に助けられ,お父さんを心残りなく見送られた彼女の人となりを、愛おしくさえ感じます。今、お父さん亡き後、ご自分の人生をのみ考えて生きる今を支援NETをも糧としてくれているようです。そしてご自分を取り巻く人と人との関係を大切に育てていかれているようです。しかし、悲しいことや苦しいこと本当はたくさんあったはず、それらを聴いてあげられる器がなかった私は大いに反省しました。これからはもっと自由に苦しいことのその意味することが語り合える友人になれることを願っています。

     北川美子

2009.06.17

最終回[ こころのカタチ 7

くらしの支援NETWORKのみなさんをはじめ、たくさんの方々にご協力をいただいて社会調査を実施しました。10代から70代まで285人のみなさんからお返事をいただきました。他に類をみない95%という驚異的な回収率のお陰で、18,810のデータが得られました。
この調査の目的は、近年急増している「若年中途障害者・高齢中途障害者」をめぐる〝こころのカタチ〟を明らかにすることです。


4月の介護研究会VOL.66では『闘うリハビリⅡ』についてたくさんの意見が出されました。「できないこと」より「できること」、「回復」より「やりたいこと」、「希望をもつこと」、「きっかけが大切なこと」、「制度が足りないこと」・・・2月の『関係は思いやる心から』では心の病について、気持ちの紡ぎについて話し合いました。
このような意欲的で温かい気持ちがカタチとなっていく社会を、みんなが望んでいるのに、その実現を阻んでいるのはいったい何なんでしょう。


今回の調査からみえてきた日本社会の〝こころのカタチ〟の構造について、そのダイジェスト版をご報告させていただきました。











真の発見とは、新しい風景を探すことではなく、
新たな視点をもつことです
                Marcel Proust




















くらしの支援NETWORKでは
 参加者とは創り出す当事者のことです


 たくさんの当事者のみなさんに
 〝こころのカタチ part 7〟を
その〝場〟の創造を
ありがとうございました





 ■ 島田和子さん
私の思いを少し書いてみたいと思います。
私が発病したのは小学3年生になったばかりの4月です。障害者というよりか15才くらいまでは闘病生活と言った方がよいかな・・・(しんどくて痛みが強かったです)
日本には悪いことをしたから罰があたる。××の祟り、とか根強く残っている思想って言ってよいのかどうか分かりませんがありますね。それと大人が言う「可哀想に・・・親は大変ですね」(悪気はないと思います)。子供は些細なことで傷つきます。思春期に入ると自己否定に陥りました。何のために生きているのか・・・、自分もしんどくて痛くて光が見えない。また、この苦しみも人の役に立っていない。反対に親は私のために苦労をしている。生きるための希望はゼロでした。
障害者の立場としては私の場合は少し違うかもしれませんが・・・、でも一緒に入院していた友だちは親に「あんたがいるから○○が出来ないって言われるのがいちばん嫌だ」と。また筋ジスの友だちは退院する時に、母親に本当に家に帰っていいか、少しでも、しんどいと思うなら家ではなくて施設へ行くと言いました(筋ジス病棟は18才までだったそうです)。
子供は親に必要とされて、認められて、生きる力がわくのだと思います。大人になれば…社会に必要とされて、認められることだと思います。






 ■ 武本摂子さん
6月はゆっくり案内人さんのお話を聴かせて頂きました。〝こころのカタチ7〟統計から構造の中心に迫る案内人さんのデーター処理作業に費やされた時間、結果報告に至るまでの行程に感動しました。
仮説のアンケートからヒトの心に偏見が存在している(自分自身で気付かなかったこころの底を見透かされドキッと・・・)、やはり他人事と自分事では思いもかなり違うということがはっきり感じられました。
これからもどのように障害・高齢者と接するかは不安ですが、お互いの気持ち・環境・情報・・・等、交換しつつヒトとして何気なく深めていける関係が良いです。一度きりの人生ですもの優しく・笑顔で納得できる、そんなふうに。




 ■ 橋詰ひとみさん
ありがとうございました。案内人さんの熱い思いがびんびん伝わってきました。
とても意味深い、心を掘り下げたというか、精神心理を勉強させて頂きました。正直いって私は障害者という言葉に偏見があると答えたひとりです。人は悲しきかな自分自身が障害を持たないと本当の気持ちがわからないのでしょうか?
どんなことに対しても経験された方は実感があり、深みがあると思います。大事なことは、人間は死から逃げることは出来ないし、ほとんどの人は死ぬまでに障害を持つと思います。人はこの世に送り出されて死ぬまで試されているような気がしてなりません。
子供の頃から宇宙の広さに自分の小ささを感じ、尽きることのない不思議さを今でも感じます。与えられた人生をおごらず謙虚に精一杯今出来ることをし、生かさせて頂きたいとあらためて感じました。そして何億分の1の今の出会いを大切にしたいです。







 ■ 大幸貴英さん
とても聞きごたえがありました。特にアンケート調査の「自分の中で障害者という言葉のイメージに偏見があるかどうか」というところの案内人の分析・解説・判断については非常に参考になりました。
この部分については、私もいろいろと時間をかけて考えてみたいと思います。
全体的にたいへん聞きごたえがあり、難しいことを解りやすく丁寧に話して頂いたので、誰かがおっしゃっていたようにタダで聞くのはもったいないように思いました。
案内人さんお疲れ様でした。
この次はどんなお話が聞けるか楽しみです。ありがとうございました。




 ■ 石原早苗さん
18歳の時に交通事故で健常体を喪失され、人の援助なしで生活できない不自由さがさぞかしもどかしいことでしょう。気持ちの上では自立され、一見どのような状況であっても前向きにお見受けする案内人さんですが、予期せぬ不意の事故でそれまでの当り前にできた暮らしの継続が断たれ、自己実現の範囲の縮小の現実を乗り越えられるにあたり、かなりの葛藤がおありになったことでしょう。もし、事故に遭遇しなかったら今頃どんな人生を歩んでおられることでしょうか。
たぶん、案内人さんは調査分析で実証する前から、健常体の私に見えないけれど「人の心の中にある偏見」が見えているからこそ実証されたのです。美しいことばを並べ、福祉を語る人間でさえ、心奥深くに目に見えないけれど「偏見」があることを実証されたことはショックでした。誰も何もなりたくて障害者になった訳ではないし、誰でもその可能性があり、他人事でないのに「偏見」のこころを持っていることを実証されました。
今回、私はいいカッコしている身勝手な自分の心に気づきました。









 ■ 山田俊哉さん
自分もアンケートの母数の一人として、結果に驚きました。
自分には、「偏見がない」と思っていましたが、この結果を見るとそうでもなさそうやなぁ。
これをどうしたら克服できるんかなぁ。障害者との実践的な付き合いってどんなことなんかなぁ。といろいろ考えてみました。
抗力をもった人がかなり多いのではないかとも思いました。
差別はないけど、偏見があるという人が一番多いのかな、と思います。


僕の同僚の救急隊の人たちは、どうなんかなぁとも考えました。
アンケートに「公務員」と書いた人もいるし「医療関係者」と書いた人もいますが。
分析でわかったら、教えてください。




 ■ 瀧田明子さん
ありがとうございます。私がお手伝いさせて頂けるのは参加させてもらうのがやっと。
17日はほんとに責任がきちんと分かるお話を聞かせてもらって私の知恵として学ばせて貰いました。案内人さんの努力、責任に尊敬します。私にはすべてが学ぶになれば幸いです。心をかけて頂いて感謝です。







 ■ 北川美子さん
今回の研究会『こころのカタチ』は、話題として人が最も避けたいこと、『偏見』のそれと向き合うことだったかなと思います。『みんなわかっている』こととしてしまえば簡単。実践現場での仕事や当事者の会などの様子、そして自分のこと、そして身近な人のこと,向き合えば向き合うほど人ごととしてしまいたくなる。そして、見てみないふりかな!
危機にある地球環境のことを考えての政治、経済のあり方、そしてそこにつながる教育のあり方、そこには確かに創り手の人がいます。今回の『偏見』という問題は、現代社会システムとは切り離せない問題なのでしょう。自分の『不徳』ではなく、あるものとして見つめ、しっかり向き合い続けたい、とは思っても逃げたい、社会システムに乗っかっていたい自分がいますね、ほんとうは・・・・・。それだからこそ偏見がないとした人の心にも確かに偏見は存在する、というデータの数値はやっぱり!ですね。

















  • ◆ 偏見:ステレオタイプに感情が伴った外集団への見方のこと
  • ◆ 差別:その外集団に対する否定的な行動のこと




〝こころのカタチ〟案内人から
-------- どうか最後までお読みください --------



〝こころのカタチ〟最終回は「あるべき論」を避けて、統計学的に得られた結果から「あること」を語らせていただきました。中途障害者をめぐる問題の根深さを、さんざん味わってきた私にとっての中心的な課題は、やっぱり〝偏見〟といえます。それも見えない〝偏見〟による予期しない行為とその結果です。この厄介さは誰よりも知っているつもりです。その厄介さに立ち向かおうとするとき、いつも道徳的で人道的な「あるべき」規範というカベに阻まれてしまうのです。

戦後の民主主義教育を受けてきた私たちは「平等」という「関係」を知識として与えられました。そして内面化した「平等」思想によって、意識の上で組み立てられた「平等」を前提としています。それはたとえば「障害者も健常者も同じ人間」という表現によくみられます。この表現は、一見とても平等っぽくて偏見や差別がないみたいに聞こえます。けれど「同じ」という思考様式の背景にあるのは、『偏見はいけない!』という道徳的規範から強く影響された結果なのです。道徳的ならいいことやないか、と言われるかもしれません。
だから厄介なのです。
よーく考えてみて下さい。
『偏見はいけない!』を知らない人はいません。にもかかわらず、みなさんにお見せしたとおり偏見はあります。それは実証するまでもなく、みなさんはすでに知っておられることでしたよね。私のいう「あるべき」と「あること」のちがいはこれです。
この二面性の構造が問題を厄介にさせるのです。
私たちは、成長の過程でいつのまにか自分たちのなかにこの二面性を内面化しています。しかし、この厄介な二面性を普段はあまり意識することはありません。いったんこの二面性を意識すると、胸のなかが激しくゆさぶられて緊張し、不安定な気分になってしまいます。その原因は矛盾した二面性の引き起こす葛藤です。これはとてもしんどい緊張状態です。フェスティンガーという人はこれを認知的不協和とよびました。この緊張を逓減(軽く)するために用いられる思考様式が、みなさんよく耳にする『みんな同じ』という心地のよい言葉です。つまり、「あること」を「あるべき」というラップで包んでしまうのです。
ところがここで用いられている『みんな同じ』は、緊張による痛みを感じにくくさせる痛み止めみたいなものです。ですからこれは根本治療ではないため、痛みの再発をくりかえすことになります。けれど、痛みが出てくるとふたたび鎮痛薬の『みんな同じ』を使ってしまいます。このくりかえしが、結果的に障害者という属性を社会から排除してしまうことにつながってゆきます。
ここがまたややこしいのです。

この認識ができないために、これまでどれほどの中途障害者たちが排除されて同じ過程をたどることになったことか。私は机上を語るものではありません。フィールドで、わざわざ泥沼にはまっていく中途障害者をみてきたからこそ「あるべき」ではなく「あること」を語るのです。しかしいくら「あること」を語っても、結局「あるべき」論のもつ道徳的でしかも感情的に心地よい言葉によってラッピングされてしまうのです。この構造がもたらす結果の深刻さは、みなさんが思うほど簡単ではありません。
「あるべき」を追求してきた私が言うのですから・・・ では、今なぜ「あるべき」を語らずに「あること」を私は話すのでしょう。
その答はかんたんです。
真の「あるべき」論は、真に「あること」の認識なしには成立しないからです。

「障害者も健常者も同じ」の態度は、実は〝ちがい〟を〝ちがい〟として社会受容しているのではなく、矛盾した二面的構造のもたらす緊張の痛みを回避させようと道徳的規範に相乗りし、日本人的配慮をヒューマニズムに置き換えて、〝ちがい〟を見ないように、見えないように、できるかぎりそれを小さくしようとすることなのです。これは結果的に〝ちがい〟を隠蔽してゆく思考様式です。
つまり「あるべき」と「あること」を同じにすることは、結果的に「排除はいけない」と言いながら「排除していく」ことになります。たとえばこれは「笑いながら怒る」、ほら、むかし竹中直人の芸にあった、あんな状態のことを指します。これをダブルバインドといい、この状態にさらされる人間はやがて排除されてゆきます。

私はこの〝こころのカタチ〟シリーズの6年間、ほんとうのお話だけをしてきました。たとえどのようなご批判をいただこうとも、すべて〝あること〟です。
ですから・・・ひょっとしたら私の話の後、ちょっと重い気分になった方がおられたかもしれませんね。こころの奥深くでは誰もが気づいている矛盾した二面性の構造を、統計的に実証して見せられたのですから気持ちが重くなるのは当然の反応かもしれません。
ではどうしてそれほどまでに、つまり統計学を用いてまで私は実証しなければならなかったのでしょうか。それは今回の冒頭でご紹介した「気温と体温」の相関関係を折れ線グラフにして実証しなければ医療者の誰にも信用してもらえなかった22歳の私の〝あること〟に対する苦い体験が根底にあるからです。
対症療法ではなく、根本治療をめざすマニュアルなどはありません。なぜならマニュアルは形式的な「あるべき」水路への誘導装置となって「あること」をのみこんでしまうからです。
私たちにできることは、道徳的規範のメッキをはがして、ひとりひとりの実存的な人間の関係のなかから「あること」をそのままに受容し、それが社会受容になってゆくことでしか認知的不協和が快癒される選択肢はありません。スライドでも3回お見せしたように、偏見は言葉ではなかったですよね。思考様式や感情構造は文化的領域にふかく沈潜しているものです。決して容易なことではありません。この構造と過程は、障害者のみならず、あらゆる偏見や差別にあてはまるものと考えます。
最後にもう一度だけ、
「あること」を「あるべき」のなかに溶かし込んでしまってはいけません。

さて、〝こころのカタチ〟は今回で最終回となりました。「あること」についての思いの丈を語らせていただきました。これまでお話させていただいた内容は、すべて私の実際に歩いてきた体験に基づいています。それをぜひ聴きたいというのがこのシリーズのはじまりです。ならば、それをどうにかしてきちんと伝えたいと願う気持ちが、結果的に私を勉強に向かわせました。最後まで聴いていただけたことに、そのみなさんに、そしてその〝場〟をくださった〝くらしの支援NETWORK〟に、こころから感謝しています。
ありがとうございました。

〈 おまけ 〉
上の文章を書きながら、30年前に応募した作文を想い出しました。まるで今を予見していたような文脈です。アンケートにお答えいただいた285名のみなさんへの御礼に、今回の報告にくわえて、大むかし26歳の若僧の書いた文章の一部を紹介させていただきます。

・・・・・ 先日、京都市美術館へ行った時、二、三才の女児がこちらの車いすに気付いて、コレナニ?、と傍らの若い母親に訊ねたことがあった。その母親は、返答に窮しながらぼそぼそと子供の耳元で何か言ったが、その女児は満足しない様子だった。これは大変興味深い場面に想われた。恐らく、この女児の目には初めて映る車いすだったのだろうし、その問いかけには何のこだわりもない素直さがあった。珍しい物への当然の反応に、果たしてこの母親は何と応えるか。ところが、次の瞬間に母親は、すみません、と言ってこちらに頭を下げると、子供の手を引いて逃げるように列から離れて行ってしまったのである。その後ろ姿を見て、これだ、と想った。障害者への根拠なきイメージの固定化の背景を、この若い母親の姿に見た想いがした。
 コレナニ、という女児の問いを決して失礼だとは想わない。しかし、母親は子供がとんでもない失礼を犯してしまったと思ったらしい。子供の問いかけはその時点で正常だが、次の瞬間にその子供は自分の問いに対する母親の逃げ出すという異常さに気付くことになる。さて、この母親はその後、子供にどのように話したか、が気にかかった。色付けすることなく、事情を正しく伝えたろうか。それとも叱責したか……。
 事の善悪を問わず、組織の中で容認されているものは正しいと思われがちである。そして社会において容認されているものを常識という。しかし、歴史的にみても常識には普遍性がないし、同時代でさえ民族間における常識には統一性がない。殊に慣習化した常識の中には根拠のないものが少なくない。 美術館での若い母親の言動が、心情的に理解出来るのも、19年間を健常者として生活し、吸収した常識的な感覚によるものかもしれない。それ故に、個人の判断力の介在しない根拠なき常識のもつ残酷さに慄然とするし、その根深さには驚く。人種差別、身分差別、障害者差別など、常識には表層において差別を否定している面と、深層において差別を温存する面の二面性があるようだ。すべての差別は、この常識的感覚の中で教育されていく。障害者に対するイメージの一方的固定化の背景とその本質は、どうもこの辺りにあるような気がする。常識を作ってきたのが人間である以上、人間には誤った常識を改革していく義務がある ・・・・・  (1979)

30年たつのに、バリアフリー化はすすんだのに、この〝こころのカタチ〟をめぐる問題の根深さは、現在も変わることがありません。

堀川 優


人はだれも偏見や差別をもって生まれてくるのではありません